文化服装学院の評判(卒業生)
卒業生の声
保科 路夫
2002年
ファッションディレクター
空間を使ってどうアプローチするかが、僕の仕事
東京コレクションでは人気ブランド “ファクトタム”や “シアタープロダクツ”の演出を手掛けるほか、ブランドの展示会やパーティなどの空間作りまで、ファッションを軸にさまざまなディレクションを担当する保科さん。演出家、ファッションディレクター、ショーディレクターなど肩書きは特に決めていないという。「モデルが歩くショーでも、展示会でも、空間を使ってどうアプローチするかを考えるので、あまり意識は変わらないですね」

プロとしての自覚を持ったきっかけ
初めて一人で仕事を任されたのはアシスタントについてから、2年ほど経った頃、ブランドの展示会だった。その後、ショーを手掛けることになるが、その会場となったのが母校である文化服装学院のホール。「コンテストのショーだったのですが、こういう場合は過剰な演出をつけると、そこで合否が変わってくることもある。だからこそ、いかに段取りよくやるかが大事でした」馴染みのある場所ならば、安心してできたのでは?「すごく焦りました。笑。仕事としてお金をもらっているということで責任感が違ってきますし、クライアントからしてみれば、キャリアが1年目でも10年目でも同じ。プロとして僕のことを見ているわけですから」
「制作」と「演出」では、使う脳みそがまったく違う!?
一見華やかに見えるディレクターという立場の仕事だが、そこには相反する「制作」と「演出」という2つの柱がある。「僕の仕事は制作をしながら、演出もこなします。制作は、タイムスケジュールを組んだり、様々な発注をします。そしてなにより、予算の調整があります。演出は、照明やモデルの動き方、全体のメージを考えたり。まったく使う脳みそが違うのです。ときには、演出したいことと予算が合わないという葛藤も。これらを別々に担当するところもありますが、僕は予算もわかりながら、それに伴った演出で、よりよいものを提案していきたいです」
ニュートラルでいることが、逆に客観的な意見を生む
「その時々に応じた演出が大切だと思っています」という保科さん。「僕は音楽や映画、本など深い知識があるとか、パソコンや映像作りが特別に得意だとか、そういうことがない分、客観的にそれが演出に合っているかどうかを判断できると思います。もちろん、どのジャンルも多少の知識はありますが、詳しすぎてしまうと、自分の意識が強くなることもある。知っておく分には問題ないけれど、変にウンチクを言うよりは、いつもニュートラルでいられることも大事だと思います」
街の音を聴くことが、情報収集になる
いつも持ち歩く荷物の中に「iPod」がある。音楽を聴いているのかと思いきや「音楽はあまり聴かないです。街の音を聴いているほうが好きなので。こんな店ができたとか、今はこういう着方が流行っているなあとか、こういう会話をしているんだとか。街からは情報が入りやすいですよ。情報というより“感覚的”なもの。情報はネットでも得られますが、ネットの情報は若干薄いので。感覚は自分で体感していかないとわからないですよね」もっぱら「iPod」は、ショーの構成を考えるために、ストップウォッチ機能として使用しているそうだ。
今やっていることを丁寧に積み重ねていく
学生のとき特別講義で、ボスである谷岡さんの仕事を知った。そのとき、谷岡さんにアプローチしたことがきっかけとなって、そのまま在学中からアシスタントになった。今後の保科さんの目標を聞いてみた。「今はまだ、精一杯な状態。僕は小さなことにすごく悩むタイプ。それは演出における些細なこだわりでもあるのですが、積み重ねてやっとそこに行き着くみたいな感じ。ひとつひとつできることを丁寧にやっていく、そんな精神でこれからも続けていきたいですね」
※この取材内容は2009年4月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
古橋 彩
2004年
デザイナー
“fur fur”
コレクションと展示会で、年間スケジュールはいっぱい
フリルやレースを使ったスタイルに、テーラードジャケットなどのマニッシュなテイストを組み合わせたレイヤードスタイルを得意とするブランド“fur fur”。デザイナーである古橋さんに今の仕事を伺ってみた。「年に4回の展示会、春と秋に開催される年2回のコレクションに向けての活動が中心です。そこにイレギュラーで制作するスポット企画のお仕事もあります」それは、他のファッションブランドや映画とのコラボレーション企画まで多岐にわたる。「コラボ企画以外にも、展示会には出していないけれど、直営店からのリクエストなどで商品を追加生産することもあります」多忙なスケジュールを押してまで、それらに答える古橋さんには理由があるようだ。
手作りとプロダクト的なミックスが“fur fur”の特徴
「ラフォーレ店はオープンして2年近く経ちますが、店頭からのリアルなお客様の声は、とても参考になります。定期的に店長を交えてミーティングをし、お客様との距離感を近くしたいと思っています」お店ができたことで、古橋さんが得意とする手作りの一点物を発表できることもうれしいことだという。「手作りものを得意としていますが、すべて私が一人で作るには限界があります。今はそういった生産背景も整ってきたので量産可能な手作りのものと、お店だけの完全な一点物など、いいバランスで展開できるようになりました」手作りものとプロダクト的なもののミックス、それらがうまく融合したさじ加減が“fur fur”の特徴という。
ブランドのイメージを凝縮した今回のコレクション
2009-‘10年秋冬のコレクションは、ハーブ魔女を思わせるナチュラルでミステリアスなエッセンスと、ロマンティックなフリルやレースの繊細さ、田舎の農夫のようなオーガニックな雰囲気をキーワードにコレクションを展開した。「今回は4回目のショーで、一本軸を通したいというのがあって、今までやってきたことの集大成の意味を込めて制作しました。得意なものを集中して見せたシーズンだと思う。ストレートにブランドのイメージを伝えました」素材には、ウールリネンやタータンチェックなどを使用し“らしさ”をアピール。そこにマーティン・マニグ氏による毒気あるユーモアなイラストを取り入れたラインもアクセントとなった。
瞬間的に集中力を上げていくことを目標に
多忙なスケジュールの中でデザイナーとして時間を費やし、こだわりたい部分を聞いてみた。「年4回の展示会で単純計算でも3ヶ月でワンシーズンのことを完了させる。デザイン画作りや仕様書の作成などに費やしたいという願望はありますが。笑」費やしたい時間が取れず、ジレンマだったときもあるが、逆に今は瞬間的に集中力を上げていくようにしているそう。「時間は取れなくても、“集中する時間”を作ることはできます。その意識があれば、同じ時間でもだいぶ違ってきます。そうはいっても、まだできてはいないかも。今でもそれが目標です」
少しでも成長して、継続していきたい
学生のときの授業はすべて役に立っているという古橋さん。就職活動で持参したアクセサリー作品も授業で覚えた技法だった。それがチダコウイチさんの目にとまり、「フレーバ」に入社。その後は、チダさんがデザイナーを務める“OUT of ACTION”のアシスタント、’06年には“FUR”のデザイナーに就任、さらに‘08年には“fur fur”として東京コレクションでデビューを果たすなど、めざましい躍進を遂げている。そんな古橋さんの今後を聞いた。「とにかく継続していくことが今はいちばん大事。前シーズンより少しでも良くなったことを、自分自身が実感して続けていけるようがんばっていきたいと思います」
※この取材内容は2009年4月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
水上 朋史
2004年
パタンナー
若手では珍しいフリーのパタンナーに
アパレル企業やブランドには所属せず、事務所“(pour la)toile”(プーラトワル)を立ち上げ、現在フリーのパタンナー(外注パタンナー)として活動する水上朋史さん。現在は“fur fur”“wizard”をはじめ、幅広いブランドの仕事を請け負っている。通常フリーのパタンナーは、企業で長年キャリアを積んだベテランが独立してなることが多く、水上さんのような若手は珍しいのだとか。「もともと『とにかくいろんなパターンを引きたい』と思っており、いつかフリーになりたいとは思っていました。予想よりこんなに早く夢が実現できたのは、人の縁とつながりに恵まれたお陰だと思っています」
デザイナーの意図を汲み取ることが第一歩
フリーのパタンナーへの、仕事のオーダーのされ方は実にさまざま。レディース・メンズで多少事情は異なるが、細かい仕様書*に忠実にパターンを起こすこともあれば、イメージ画と参考写真からパタンナーの感性で形を展開することが求められるなど、すべてはデザイナーのやり方次第。「デザイナーさんとは一緒の場所で働いていないので、短い打ち合わせで相手の意図をどう汲み取るかは未だに苦労する部分です。かといって、質問攻めにするのもしつこいので、その人の服装を見たり、趣味の話をしたりして『こういうテーストが好きなのかな?』と、仕事には直接関係ない部分から情報を読み取ることもあります」
人を遠隔操作することの難しさ
水上さんがパターンをやっていて一番楽しいのは「全体の形を決めるとき」。形を出した後は、縫製工場の人にイメージ通りに縫ってもらうよう仕様書を作成するが、ここが外注パタンナーとしての力の見せどころだ。「工場の人とは直接話せないことが多いので、パターンと仕様書で言いたいことを伝えなければなりません。指示は書こうと思えば無限に書けるのですが、細かく書きすぎても言いたいことが散漫になるので、間違いやすいポイントを押さえる程度に書いています。仕様書の書き方には気をつけないと、とんでもないものが上がってきてしまうので責任重大です」
今はいろんなものを見聞きし、引き出しを増やす時
外注という立場上、パターンを納品したら仕事は終わりで、最終的な形は見られないことがほとんど。でも水上さんは、「僕の場合はまずパターンありきというか、パターンを引ければそれで満足なんです」ときっぱり。今後は、フリーとして働きながらプロのパタンナーのための学校に通い、さらに知識や技術を磨いていく予定だ。「個人で仕事をしているとひとりよがりになりがちなので、今はもう少しほかの人の意見も聞きたいという思いがあります。パターンは人によってやり方や考え方が違うので、いろんなものを見聞きして自分の引き出しを増やし、どんな仕事にも柔軟に対応できるようになりたいです
プロのパタンナーとして常に向上していきたい
最初はデザイナー志望だったが、「結局、絵ではどうにもならない部分もある」とパタンナーになった水上さん。パターンを引いていられれば幸せで、「正直営業は得意ではありませんが、事務所を立ち上げた今後はその辺が課題かもしれません」と言うが、「口先だけで仕事を取っても、そういうものはやがて消えてしまうのではないかと思います。『自分はパタンナーなんだ』という原点は忘れないようにしたいですし、妙に世渡り上手になるのではなく、自分のやった仕事で新しい仕事を取るのが理想。不器用かもしれませんが、そのためにはパタンナーとして常に向上していかなくてはと思います」
※この取材内容は2009年5月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
村瀬 史憲
2001年
生産管理リーダー
“COCO DEAL”
ブランドが成功するか否かは生産管理の采配次第
スケジュールや予算の管理をはじめ、服に使用する素材や縫製工場の選定など、消費者の心を掴むアイテム作りのために、ブランドを影で支える生産管理という仕事。ファッションブランド“COCO DEAL”の生産管理リーダーを務める村瀬史憲さんは、限りある予算の中でいかにクオリティの高い商品を作るかというミッションと日々戦っている。「生産管理は利益に直結する部分ですし、どの縫製工場に依頼するかよって品質も大きく変わってきますから、アパレル企業の中では非常に重要なポジションと言えます」
コストは下げても、絶対的な品質は守りたい
2008年2月にデビューした“COCO DEAL”は、25歳前後の女性がターゲット。トレンドを取り入れたアイテムが、リーズナブルな価格で手に入るのが特徴だ。縫製を行う工場は日本、韓国、中国、インドにあるが、現在比重が大きいのが中国。村瀬さんは2~3カ月に1回のペースで中国に出張し、工場の新規開拓や既存の工場の品質管理を行ったり、生地市場で素材探しをしたりするという。「一番難しいのは、品質とコストのバランスを取ることです。工場と協力しながら、コストは下げても絶対的な品質を守れる生産体制を作っていくことが生産管理の肝だと思います」
パタンナーから生産管理へ
実は、村瀬さんは元パタンナー。パタンナー時代はミリ単位の寸法にこだわっていたが、今は全体的な効率を考える立場ゆえ、逆にパタンナーのこだわりをコントロールするのが役割。いわばパタンナーと生産管理は相反する仕事だが、「ものを作ることはもちろん好きですが、生産管理は自分に合っていると思います」と村瀬さん。「もともと理系なので数字が好きで、パタンナーのときから自分の仕事でどれくらいの利益が上がるかに興味がありました。あと、こう見えて割と計画的で(笑)、学生時代も朝一番に学校に行ってミシンを取って、課題は学校で終わらせて夜は遊びに行くタイプでした」
パタンナーの経験を生かし、一歩踏み込んだ生産管理を
また、「パタンナーとしての経験は、生産管理の仕事にすごく役立っています」と村瀬さん。たとえば中国の縫製工場でサンプル品のチェックをするときも、ただ口で指示するだけでなく、ミシンからボビンを出して下糸の調子を確認したり、使っている糸の質を見たりなど、パタンナーをやっていたからこそ深く見られる部分があるとか。「そうすると工場の人も信頼してくれますし、こちらがどれくらいの品質を求めているのかが具体的に伝わると思います。また、用尺*が頭に入っているので、生地幅に対してパーツがいくつ取れるかがだいたい分かり、見積もりを出すのもスムーズです」
世界一安価で、高品質な商品作りを目指す
現在、村瀬さんは生産管理リーダーとMDを兼任しており、休日には街でトレンド分析をしたり、競合ブランドのショップを見たりして過ごすことが多いそう。「休みでも、ついつい仕事をしてしまいます。競合店でマネキンが何を着ているか、店頭のニットとカットソーの割合がどれくらいかなどを手帳にメモして、COCO DEALが勝てる部分はどこかを常に考えています」。将来的には、今より安価で質のよい商品が出来る生産体制を作り、他ブランドを圧倒する完成度のアイテムを提供したいと語る村瀬さん。「1枚3800円のTシャツでも、市場の同じ値段のアイテムの中で一番いいものを出せる生産体制を作ること…それが自分の使命だと思っています」
※この取材内容は2009年6月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
岡田 敦之
スタイリスト
“松竹衣裳”
役柄のイメージに合わせた服を集めることが基本
映画やドラマの登場人物によりリアリティーを出すには、その役柄が着る服によるところも多い。そんな重要なポジションに就くのが、「松竹衣裳」でスタイリストとして活躍する岡田敦之さん。「映画やドラマには作品の監督がいます。雑誌のスタイリストのように流行のものを集めるのではなく、監督がイメージする服を集めていき、役の設定にあうことが基本です」。衣装合わせのときは1つのコーディネートを決めるのに、10パターン近く準備することもあり、集める服の量は膨大。「自分でも台本を読んで、その役柄にあった服を提案します。監督のイメージの中に、自分が思うものをうまく入れていければいいですね」
歌舞伎の配属で学んだこと
現在は、映画を中心とした仕事が多い岡田さん。しかし、入社後まもなく配属されたのは歌舞伎の世界だった。「新入社員はほとんど歌舞伎に配属されます。最初はドラマの仕事に就いたのですが、すぐに異動に。1年半くらい舞台の仕事しましたが着物の知識もなく、大変でした。でも先輩たちに恵まれ、いろいろと教えてもらいなんとか形になってきました。歌舞伎座を始めとした舞台の現場にも入り、着付けができるようになったのは、大きかったですね」。その後、映像の世界への興味が強かった岡田さんは再び、ドラマ・映画部門へ異動に。しばらくアシスタントとして活動し、いよいよチーフとして独り立ちすることになる。
映画出演者、全員分の衣装を集めて
スタイリストチーフとしてデビューした作品は映画「青の炎」。蜷川幸雄初監督としても話題となった作品だ。「この作品は、監督がリアルを求めていました。そのため主演の衣装はもちろん、彼らが通う学校のクラスメイトの制服まで担当しました」。そのときはアシスタントもなしで、一人で手掛けたというから驚きだ。それからは数々の人気映画を手掛けることになる。「撮影は、1シーンから順番に撮っていくのではなく、あちらこちらにシーンが飛びます。そのため、徐々に服が汚れていく構成ならばいいけれど、シーンが前に戻るときもあるから、そんなときは同じ服を何枚か用意することも。そこが普通のスタイリストとは違いますね」
辛くても、やりがいのある現場の雰囲気
映画の規模が大きくなるほど、撮影の拘束時間が長くなっていくという。「同じ作品を半年近く手掛けることもあります。早朝に起きて、服を着せて。地方のロケに行きっぱなしもあれば、スタジオに数ヶ月缶詰めなときもある。朝早くて夜は遅いけれど、作品ごとに違う現場で、多くのスタッフと知り合えることは、楽しくて新鮮」。服だけを集めてきれいに撮るだけじゃないことが、またおもしろいという。「服が合わないからと、後ろをピンでつまんで調整するなんてできない。人が着て動くし、360度撮られるし。やりがいがあるのは、ある面そこかもしれないですね」。石原裕次郎の半生を描いたドラマ「弟」を手掛けたときは、時代背景のリサーチから資料を集めまで、まるで昭和史を見るような感じだったという。「さすがに辛すぎて、辞めたくなりました。笑。でも終わったとき“よくやった”と自分自身で思ったら、次の仕事を始めていました」
夢を叶えて、次へのステップへ
高校生のときからドラマなどを見ては、最後のテロップに流れる衣装さんやスタイリストさんの名前をメモっていたという。その後、スタイリスト科へ入学し、卒業と同時に「松竹衣裳」へ入社した。「スタイリスト科は個性の強い人の集まりで、仲間を作りにいく感じで通っていました。今でも誰かの誕生日ともなると連絡が入ります」。そんな学生時代からの夢を叶えた今の仕事で、今後の目標を尋ねると「自分が台本を読んで思ったイメージ通りの衣装が提案できるといいですね。日本でも名のある衣装デザイナーがいますが、自分もいつかはそういった立場になれればと思っています」
※この取材内容は2009年7月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
井上 武
2005年
衣装デザイナー
t.i
枠組みを作らず、依頼が来たものは何でも制作
アーティストのライブ衣装や、テレビ・CM・映画・舞台の衣装、はたまたキャラクターの着ぐるみからプロレスラーのリング衣装まで、ファッション業界という枠を超えてデザイン&制作活動を行う井上 武さん。「もともと『ミシンと布で何かを作りたい』というところから出発しているので、『私たちのコンセプトはこうで、こういうものしか作りません』といったことがありません。カフェのスタッフのTシャツでも、普通の奥様のドレスでも、プロレスラーのマスクでも、頼まれればなんでも面白がって作ります」
限られた納期と予算の中で、一番格好いい衣装に
現在、仕事の中で大きな比重を占めているのが衣装制作。手掛けるものはそのつど異なり、仕事をする相手もスタイリストやイベントの総合プロデューサー、CM制作会社やタレント事務所のスタッフなど多岐に渡る。案件によって求められるものも違ってくるが、「それは大きな問題ではなく、気持ちの切り替えも特にしていません」と井上さん。「まずは相手の要望があって、納期や予算を考えながら一番格好いいものを作ろうという思いでやっています。それに対象が何であれ、一生懸命やるというスタンスに変わりはありません」
オリジナルブランドでは好きなものを表現
2008年からは自身のクリエーションを、ブランド“t.i”として発表している井上さん。「自分の趣味を突き詰めたキワモノだったりするので、バイヤーさん受けは決してよくないです(笑)。でも、スタイリストさんからの問い合わせは多く、t.iの服が雑誌『装苑』に載ったときは、それを見たスタイリストの岡田さん*が気に入ってくださって、映画『曲がれ!スプーン』の衣装に使われたという経緯もあります。t.iはデザイナーというよりも作家的な活動の場なので、展示会やコレクションを絶対しなきゃいけないというルールもないですし、自分たちの好きなことができればいいかなと思っています」
学生時代の出会いが、現在の活動のきっかけに
井上さんは、アパレルデザイン科の卒業とともに同級生の惠藤高清さんと会社を設立。現在は、同じく同級生のパタンナー・北村冴子さんと3名で協力体制を取っている。「学生時代、周りが服のコンセプトやテーマについて話しているのに正直ピンと来なくて、『服が格好よければそれでいいのでは!?』と思っていたんですが、同じく『コンセプトってよく分からない』と言っていたのが惠藤で(笑)。それで意気投合して、何か一緒にやろうと会社を興したので、そういう意味では、文化でふたりが出会ったことが大きかったと言えます」
喜んでくれる人がいる限り、クリエーションを続けたい
衣装制作もオリジナルブランド運営も、今後は活動の裾野をもっと広げていきたいという井上さんだが、「でも、自分たちが作ったものを喜んでくれる人がいて、それで利益が生めればいいかなという気持ちがベースにはあります。依頼を受けてから納品までの猶予が3日というタイトな仕事や、企画が途中で頓挫したり、スタッフの板ばさみになったりするなど大変なこともありますが、最終的に相手が喜んでくれるのを見ると、『僕が目指していたデザイナーって、つまりこういうことなのかな』としみじみ思います」
※この取材内容は2009年7月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
高篠 裕子
2005年
イラストレーター
イラストで一本立ちすることの難しさ
雑誌や広告の挿絵など、各ジャンルで引っ張りだこのイラストレーター・高篠裕子さん。温かみのあるユーモラスなイラストは、目にしたことがある人も多いのではないだろうか。高篠さんはイラストレーターになって今年で4年目。現在はマネジメント事務所“アスタリスク”と専属契約を結び活動の場を広げているが、「イラストレーターになったからといってすぐに仕事が来るわけでもなく、最初の1~2年は美術館でアルバイトをしながら活動していました。そんなときフリーのイラストレーターであり、学生時代にデザイン画を教わった吉岡香織先生がアスタリスクを紹介してくださり、イラストレーターとして一本立ちする可能性が開けていきました」
運命を切り拓いた線画のイラスト
仕事の幅が広がったのは、線画という“自分らしい”タッチを確立させたのが大きなきっかけだとか。「今メインに描いている線画は、アスタリスクのスタッフが面白いと興味を持ってくれて、クライアントに売り込んだことから仕事につながりました。経験が浅いころはとにかく一杯絵を描いて、スタッフにアドバイスをもらっていました。スタッフに『めげないよね』と感心されるくらいの枚数を見せたのですが、そこで感じたのは自分で思う私らしさと、周りが思う私らしさは違うということです。線画のイラストも自分としては遊びで描いたものなので、もし客観的に見て魅力を認めてくれる人がいなければ世に出ることはなかったと思います」
イラストの活用の場は無限大
物心ついた頃から絵が好きで、絵に関係した仕事に就きたいと思っていた高篠さん。「でも、絵と同じくらいファッションのことも好きだったので、やってみて自分にはどちらが向いているのか見極めようと思いました」と、アパレルデザイン科に進学。最終的にイラストの道を選んだ高篠さんは、ファッションとは遠く離れたところで仕事をするかに思われたが、オリジナルイラストがTシャツデザインに採用されるなど、実はファッション業界に深く関わる仕事にも携わっている。「イラストとは一見関係のない世界でも、思わぬところでイラストが使われていたりするので、自分の知らないところにまだまだいろんなチャンスが転がっているのかなと思います」
大切なのは人とのつながり
基本的に会社に所属せず、フリーランスとして仕事をしていくイラストレーター。「イラストレーターにどうやってなるのか?」という部分は非常に気になるところだが…。「実は、私もよく分かりませんでした(笑)。ただ、学生時代の担任の先生がおっしゃった『あなたがイラストレーターと言えば、もうイラストレーターなのよ』という言葉に納得して、まだ仕事がないうちから名刺を作って周りに配ったり、作品ファイルを作っていろんな人に見てもらったりしました。そのときは仕事につながらなくても、人と人が意外なところでつながっていたり、ひとりの人との出会いがネットワークを大きく広げたりすることもあるので、人とのつながりは本当に大切だと思います」
多彩なタッチに対応していきたい
以前、電車の車内吊り広告のイラストを描いたときは、「何気なく乗った電車で、自分のイラストを見たときは嬉しかったです」と高篠さん。とはいえ、イラストレーターはクライアントから依頼が来て始めて成り立つという厳しい仕事。「今はひとつひとつの仕事を着実にやることが経験となり、クライアントの信頼を得ることにつながると思います」と語る。また、現在は線画を中心にしながらも、多彩なタッチに対応して間口を狭めないようにしているそう。「ひとつの作風で勝負するのもいいですが、私はいろんなタッチの絵を描いて、クライアントさんの幅広い要望に応えていきたい。そういうスタンスのイラストレーターがいてもいいかなと思います」
※この取材内容は2009年8月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
高橋 佳恵
2005年
アクセサリーデザイナー
ポップだけれど、シュールなテイストが入ったアクセサリー
アクリル素材などを使って展開するアクセサリーブランド“High-Me TOKYO”。かわいいだけでなく、どこか皮肉ったニュアンスが入っているデザインは、一度見たら忘れられないインパクトを放っている。「“人の感情のあいまいさ”だったり、これを言うと目を背けたくなるようなことにあえて焦点をあてるというか…そういったことをデザインコンセプトにしています」例えばカチューシャには、英語で“あいまいさ”や“操り人形”といった意味深な言葉を載せ、ポップなデザインに相反する要素を入れ込んだ。「クレイジーフォーマルをテーマにした今回は、イメージビジュアルも(トップの写真)、中性的な雰囲気の男性モデルを起用し、独創的な世界観を表現しています」
アクセサリー作りに、おもしろさを見出して
学生時代は服作りを学んでいたが、特別講義で受けたアクセサリー作りにおもしろさを感じたという。しかし卒業後はスタイリストのアシスタントに就くことを選んだが、思うように動けない自分にジレンマを感じていた。本当にやりたい世界への転身を考え、アクセサリーブランドを立ち上げた同級生のもとでデザイナーアシスタントとなった。「1年くらい経った頃、自分でもブランドを始めたいと思い、カフェを使って展示会を開催しました。そのカフェで働きながら、自分の商品を見てもらうというチャンスを得て、ブランドは少しずつ軌道に乗りました」しかし、その頃使っていた素材はパーツを仕入れて制作していたため、次第に自分の中で納得がいかなくなってきたという。なにか一歩を踏み出したいという気持ちから、単身ヨーロッパへ向かうこととなる。
海外で吸収したすべてが、次なるステップへ
「London Tokyo Styleのライターの方と、以前取り扱いのあった代官山のショップ・A(エース)で知り合う機会があり、これがきっかけとなってコレクション時期にロンドンからパリを訪れることになりました」1ヶ月アパートを借り、多くの経験をしたという。「プレスにメールを送ってコレクションの案内状を手に入れるほか、ジャーナリストの方とも知り合いになり、結局は15ブランドほど見ることができました。会場に自分のアクセサリーをつけて行くと見た人がおもしろがってくれて…」それらの刺激から、自分の中でコンセプトが徐々にまとまってきたという。「自分がちっぽけだなと思うと同時に、だめもとでやろう!という感じになりました」帰国後、高橋さんは新たな意識を持って再始動することとなる。
もっと多くの人にブランドを知ってもらいたい
「自分の作るものが、量産されるという意識はなかった。いいと感じる人に買ってもらえればいいかなと。でももっと多くの人に知ってもらいたいと思うようになりました」そこで工場を調べ連絡し、生産ラインを確保した。すると一気に作りたいものの幅が広がったという。さらにブランド名も一新することに。HiMe(秘める・秘め事)、High Me(自分自身を高める)という意味合いで“HiMe”(ヒメ)としていたが、「アクセサリーを身につけることで、自分自身の気分を上げていこうぜ!」という意味がわかりやすいように“High-Me”へ。そして世界を視野に入れ“TOKYO”から発信していることがわかるようにと。「私の作るアクセサリーは、日常的に着けるものではないと思っています。ひとつの作品としてのインパクトが強いので、そういった面にビビっときて共感してくれる人が、今日はこれつけてやるぞ!という風に言ってくれたらいいですね」
次なるブランドの展開を考えて
以前から展示会ではアクセサリーに限らず、人形やパネルにコラージュを施した作品なども発表している。「人形は取引先である香港でディスプレイされています。もともとコラージュが好きなので、布やパーツを組み立てながら様々な作品を作り続けています」こういった作品群もいずれ展開できればと夢は膨らむ。「“High-Me”に続けてなにかが誕生できそうだと思っています。例えば人形のラインで“High-Me dolls”とか。買いやすいセカンドラインとかも考えられますね」学生時代は、期限を守って課題をこなしていたという高橋さん。そういった感覚は仕事の規模が大きくなるほど、役に立っているという。今後さらなる飛躍が期待できそうだ。
※この取材内容は2009年9月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
永井 著太
2000年
グラフィックデザイナー
広告デザインの世界へ
グラフィックデザイナー兼WEBデザイナーとして、ヘアサロンやカフェ、芸人さんやアーティストのHPのデザインを手掛ける永井さん。アパレルデザイン科を卒業後、広告代理店やデザイン事務所に勤め、現在はGENOME GRAPHIC名義で活躍している。そもそもデザイナーを志した経緯はどこにあったのだろうか。「もともと文化に入る前から美大に入ろうか迷っていたんですよね。服にももちろん興味があったんですけど、広告デザインにも興味がありました」。文化ではファッションの勉強をしながらも、将来の方向性はグラフィックデザインへと向いていった。「僕らの同世代ではアパレル業界で活躍できる人がたくさんいたんです。だから自分は服じゃないアプローチがしたいと思ったんです」
文化での経験がクライアントに安心してもらえる要素にも
文化で学んだファッションの知識や経験は、決して無駄になることなく、現在の仕事にも生かされているのだそう。「服飾の知識があるということは、洋服や理美容に関するクライアントさんと接する際には『知ってるもんね』と言ってもらえますね。例えば布地の素材感なんかもわかっていますし」。学生時代に培った知識は、クライアントと仕事をする上で信頼関係を築く大切なツールとも言えるようだ。さらに仕事のスタイルは当時の“課題”にも通じるものがありそうだ。「文化時代は課題はすぐに出していました。その代わりサボり気味で単位がギリギリだったんですけどね(笑)。今でも仕事は締め切りギリギリにやるというのではなく、前もって計画的に進めるようにしていますね」
リンクする相互作用がWEBデザインの魅力のひとつ
紙媒体のデザインとは違って、WEBデザインならではの魅力とは「人と人がリンクする、ページとページがリンクする相互作用がありますよね。そしてデザインと動きだったり音だったり、WEBでしか表現できないことがあると思うんですよ。ビジネスのフィールドとしても、洋服も音楽も買えるし、どの媒体でも呑み込むことができるというのも魅力ですよね」。その仕事のベースとして常にあるのは、“クライアントと一緒におもしろいものを作る”ということ。「クライアントさんと作り手(僕)と、見ていただくユーザーさんが満足していただけるものを作るというのがテーマです。クライアントさんばかりが喜んでいたり、こちらだけで提案していてもよくないと思うし、それぞれの視点で良いと思えるものを作れればと思っています」
人との繋がりが仕事に繋がる
良い作品作りのために重要なことは「クライアントさんからどれだけ聞き出せるか」。そのヒントは実にシンプルなことだったりするようだ。「簡単に言えば仲良くなることだったりします。例えば遠慮されて言われても表面だけになってしまうし、その人が本当に作りたかったものを聞き出せれば、こちらはそれを提供できるかどうかだと思うので」。さらに仕事において大事なのは、コネクションだとのこと。仕事の依頼は人づてに舞い込んでくることがほとんどなのだとか。「やっぱり人との繋がりというのはありがたいですね。ゲーム関係とか、芸人さんとか、洋服とか、美容とか、本当に幅広いです。まずは僕を気に入っていただいて、作品を見ていただいて、それを気に入っていただいて…結果、仕事に繋がります」
地方と都心を繋げるアートワークを目指して
常にPCと向き合ってデザインワークをしていると、煮詰まってしまうこともあるのでは…?「そんな時は散歩に出かけたり、近所の図書館に行ったりします」。さらに自然に触れることで考えさせられることもあるよう。「登山が趣味なんですけど、情報から隔離された環境に行ってみて、『本当に必要な情報』が何なのかを考えるんです」。デジタル化が進む時代の中で、次なるグラフィックデザインの可能性とはどこにあるのだろうか。「地方と都心部を繋げるデザインやアートワーク、WEB制作などをやってみたいですね。今は地方が活性化していないというのもありますし。情報が中央に集まるのは仕方ないと思うけど、地方が頑張る時期が来ていると思うので、それを応援したいし協力させていただきたいです」
※この取材内容は2009年10月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
横山 智和
2008年
帽子作家
模索しながらの帽子作り
帽子作家として日々帽子制作をこなしている“nokkuの帽子屋”こと横山さん。帽子作家になるからには、もともと帽子が好きだったのだろうか。「小さい頃から帽子を被るのが習慣にはありました。ハットやハンチングなど。でも今は自分の帽子は2つくらいしか持っていませんね」。文化に通いながら帽子作りのノウハウを習得していったのかと思いきや、実はそういうわけでもなかったようだ。「文化に入る前から帽子をやりたかったんですけど、実際は文化では帽子専門というよりもバッグや手芸、刺しゅうなど、総合的に帽子に必要なことを学びました。」。文化では帽子作りの基礎を学び、さまざまな知識と技術を身につけていったようだ。しかし今もまだまだ勉強中なのだとか。
物作りの中で最終的に残ったのが帽子だった
文化在学中から帽子作りを始めてそのまま現在に至っているという横山さん。「学生時代から少しずつ作り始めて、そのまま卒業して帽子作りをコツコツ続けています。将来はどうしようかなぁと思っていたら卒業していた感じです(笑)。何も考えてなかったと思います」。もともと何かを作る作業、物作りが好きで、そういった中で自分が続けていけるのは何かを考えたときに残ったのが、帽子だったのだとか。「文化に入る前に文化学院という美術系の学校に通っていました。油絵を描いたり鉄を削ったり、木を削ったり。そういうことが好きだったんですよね。そしていろいろと消去法をしていって残ったのが、帽子だった。だから続けているのだと思います」
人と人との縁でオーダーを受けるように
今、横山さんの作る帽子はショップで取り扱っているのではなく(募集中)、独自のルートで販売をしている。「即売会みたいなものを喫茶店とかでやったり、展示会をしたり、ミュージシャンに頼まれて作ったり。卒業してすぐに一人でやっているのでノウハウも手探りで、今自分に出来ることをしています」。様々な縁があって受注を受ける機会があり、そこでオーダーを受けて作ることが多いようだ。先月はイラストレーターたちと一緒に韓国で展示会をしてきたのだとか。さらにはミュージシャンのライブで関西へついて行き、そこで即売会をしたりも。オーダーはミュージシャンから受けることが多いようで、「欲しいけど実際はお店では売っていないようなものを求められますね」
被ってもらうことが一番大事
帽子作りの魅力については、何よりも需要があることが一番だという。とにかく被ってもらいたい。それがあるからこそ帽子を作っているという横山さん。「この作品(帽子)を買ってほしいというよりは、『欲しいという帽子を作りたい』という感覚ですかね。あまり自分のブランドとしてやっている感覚がないですね。買ってくれて毎日被ってくれれば嬉しいです」。では帽子を作るにあたってのインスピレーションはどこから来るのだろうか。「そこにいる誰かに被ってもらうイメージをして作ることがほとんどです。需要があっての帽子作りなので」。それでは横山さんなりのこだわりは?「シンプルだけど一捻りあるくらいの帽子が好きですね」
気張らずに入ってもらえる店で帽子を売りたい
横山さんの作る帽子は一見シンプルに見えるが、裏地には派手でかわいらしい布地を使っているものが多い。裏地はヨーロッパで買い付けてきたのだとか。もともと旅行が好きなこともあり、よく国内外問わず旅行に行くのだそう。「行ったことのない所に行くのが好きなんです。あとは美味しいものを食べるのが楽しみですね」。そんな横山さんの将来の野望が実に興味深い。「将来は煮込み屋をやりたいんですよ。牛モツ煮込みをやりながら、帽子も売るんです。ファッションの敷居の高い感じがあまり好きじゃないので、煮込み屋なら気張らずに入ってもらえるじゃないですか。それに向けて今お金を貯めてます」。『煮込みと帽子のお店 ノック』、今から開店が楽しみだ。
※この取材内容は2009年11月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
古田 七瀬
2005年
コスチューム担当
“劇団四季”
コスチュームにまつわる幅広い業務を担当
日本が誇る演劇とミュージカルの殿堂「劇団四季」で、コスチュームのプロデュースを担当している古田七瀬さん。ひと口にコスチュームといっても、衣裳だけでなく小物や靴に至るまで、身につけるもの全般に携わっており、ときには舞台裏で衣裳の早変えのサポートをするなど担当業務は幅広い。「演目によっては劇場に常駐し、衣裳の準備や片づけ、クリーニングなどを行います。特にダンスパフォーマンスのある演目では、衣裳がやぶれたりペイントが薄くなったりしやすく、毎日メンテナンス作業に追われることになります」
場面に合ったリアルな衣裳作りを
取材に伺ったときは、東京の四季劇場[秋]で公演されている“ウェストサイド物語”の準備の真っただ中。古田さんは色とりどりの衣裳が置かれたコスチュームルームで、2名のスタッフとともに作業を行っていた。「今回は再演なので、新しく衣裳を作るというよりは、既存の衣裳の染め直しや修繕、サイズ直しをメインに行っています」。また、ストーリーや役柄に合わせて、衣裳にリアル感を出すのも大切な仕事のひとつ。「新しいシャツを購入したときなどは、洗いをかけたりベージュに染めたりして、わざと着古した感じを出すのはコスチュームならでは、です」
舞台衣裳ならではのさまざまな事情
デザイン画を元に素材を選び、自らミシンを踏むこともあれば、外部の職人に縫製をオーダーすることもあるなど、衣裳制作のやり方は演目によってさまざま。「まず生地選びをするところから、衣裳制作が始まります。イメージ通りのものがない場合は自分たちで染めたり、既製品に加工を施したりします」。さらに、コスチューム担当を悩ませるのが“照明”の影響。「照明ひとつで、衣裳が全然違って見えるものです。例えば、明るい照明の下ではピンクも白に見えてしまうので、客席から衣裳がどう見えるかを常に考える必要があります」
求められるオールマイティーな知識・技術
文化に入学してまもなく、舞台衣裳の道を志したという古田さん。アパレルデザイン科のメンズコースを選んだのも、舞台衣裳をやるならレディースだけでなく、メンズも学んでおきたいと思ったからだとか。「私は前衛的で非日常的な洋服を作っていたので、周りから“舞台衣裳をやったほうがいいよ”と言われることが多く、自分でも意識するようになりました。でも、舞台衣裳にここまで幅広い知識や技術が求められるとは知らなかったので、今振り返ると服装史や素材、染色など、学生時代にもっと勉強しておけばよかったと思うことが一杯あります」
俳優から信頼されるコスチューム担当になりたい
イメージ通りのコスチュームを準備しても、いざ通し稽古をしてみると「靴の音が大きい」「脱ぎ着に時間がかかる」など、細かい問題が発生する舞台の世界。本番はやり直しがきかないだけに、さまざまな状況を想定した的確な判断・調整能力が求められる。「俳優さんが“袖をタイトにしたい”と言っても、機能性などの理由から要望に応えられないこともあります。衣裳の数だけ試行錯誤があり、経験がものをいう厳しい世界ですが、俳優さんに“古田さんに任せておいたら安心”と信頼されるようなコスチューム担当になれたらいいですね」
※この取材内容は2009年11月時点のものです。
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中嶋 徹
2005年
営業
“株式会社サプライ”
メーカーがデザインしたものを形にする
デニムのOEMを請け負う会社で営業として働いている中嶋さん。そもそもOEMとは『相手先ブランド生産』ということである。具体的にはどんな仕事なのかと言うと「簡単に説明すると、自社ブランドを持っているのではなく、取引先のメーカーさんがデザインしたものを形にする仕事です」。取引先メーカーから依頼された漠然としたデザインイメージを形にするべく、メーカーと製造工場との間に入り、イメージに沿った製品を作り上げる。生地から縫製、糸の種類、釦などの付属品を決めて、ある程度の物が出来上がったら、二次加工と言われる段階に入る。加工工場に持っていき、デザイナーのイメージに合う加工を施し、第一段階で上がったものを提出。そこで納得するか修正するかによってサンプルを繰り返し展示会へ、という流れだ。
営業の仕事で生かされるパタンナーとしての実績
デニムの仕事をしているだけあって、中嶋さんはもともとデニムが好きだったのだそう。「一番最初にファッションに興味を持ち出したのが中学生くらいの頃で、それがデニムだったんですよ。そこから色んなジャンルのものに手を出しつつ、進路を決める時に、洋服の道に行きたいなと思ったんです。それで文化に入学して今に至っています」。文化のアパレル技術科を卒業後現在の会社に入社。しかし入社から4年間はパタンナーとして働いていたという。「パタンナーとして4年の実績を積んだことは、もちろん今の営業という仕事になってからかなり役に立っていると思います。物を見ながらはもちろんですし、大体のことは部分的に口で説明されても構造がわかるので理解できます。なので最初の技術職で培った時間は決して無駄ではなかったですね」。
相手のリアクションを直に感じ取ることが楽しい
パタンナーという技術職を経て、営業という仕事をすることに全く抵抗は無く、むしろ今の仕事を楽しんでいる様子の中嶋さん。「どうしたらより良いものができるかという事に頭を使っている時間が楽しいですし、社外の人と話す機会が格段に増えたのもよかったです。黙々とやる作業も好きですけど、例えばサンプルなんかは郵送で送ってしまえば特に問題はないんですけど、それを持って行くことで、相手がどういうリアクションをするのかを直接見ることができます。相手がうまく言葉で表現できないところも汲み取れるように、会いに行って打ち合わせをするという作業がすごく楽しいですね」。そして消費者であるお客さんからの反応がよかったという話を聞くのが、営業の醍醐味だという。
ネガティブな気持ちは表に出さないこと
営業という仕事柄、やはり数字に追われたり接待など大変な面も多そうだ。「やっぱり食事に行く機会が多いので、そうなると夜も遅くなりますし睡眠時間が短くはなりますね。でも基本的に人と話すのが好きですし、まったく苦ではないです」。数字や実績というプレッシャーにストレスを感じることもあるのでは?「もちろん営業なので数字を意識します。数字が調子いいとみんな気持ちもノリますし、生き生き仕事ができると思うんですよ。ただどうしても長くやっていると落ち込むときはあります。だからと言ってネガティブになっていると、物に反映されるんじゃないかというか、相手にとっても『この人に任せて大丈夫かな…』と、信用できなくなると思うんです。だから数字が悪かったとしても、そこは1人で悩んでおいて、暗い雰囲気は出さないようにしています」。
相手の意図をキャッチアップしながら情報を提供
デニムの仕事をして5年のキャリアを持つ中嶋さんだが、まだまだ知らないことがたくさんあると言う。特にデニムの歴史は深いものがあり、それを知識として身につける分には構わないが、それに固執するのはよくないというのが中嶋さんの考えだ。「うちの会社のお客さんはターゲットの年齢層が若いメーカーさんが多いので、例えば僕がもっと年を重ねたら僕よりも若い20代前半の方がデザイナーっていうケースもあり得ると思うんですよ。そういう方と話すときも、自分の概念を押し付けないように、できるだけ相手の意図を聞いて、且つより良くなるだろうというプラスアルファの情報を提供していってあげられれば良い物ができるんじゃないかと思っています」。営業は人としての信用と実績が大事であり、その為には人の気持ちをキャッチアップすることが何よりも大切なようだ。
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長谷川 陽介
2005年
商品開発
“TAKEO KIKUCHI”
チームで作り上げる、ブランドの世界観
伝統的な“英国趣味”をフォーカスし、ブリティッシュで普遍的な物作りと、現代的なポップ感を融合したスタイリングを提案する人気メンズブランド“TAKEO KIKUCHI”。長谷川さんは、そこで商品開発を担当している。「店舗が入っている百貨店などに対して、商品を作ることが仕事になります。企画はコレクションライン、開発企画ライン、MD企画ラインなどのいくつかのチームで編成されています」長谷川さんはその中でも、MD企画を中心に布帛のアイテムやカットソーなどを担当している。「店舗は全国で130数店舗の展開があります。その場所によって売れるものはまったく違うので、それらに対応するような商品も手掛けます。それは30代半ばのアッパーゾーンから、若年層に向けたアイテムまで多岐にわたります」
メンズデザインの奥深さを、楽しみながら模索中
入社して5年目を迎えるというが、メンズデザインをしていく上ではまだまだ、学んでいくことが多いという。「二度見するような驚きで、物を作りたいと思っています。それは作るということだけでなく、会議の場でも、相手を『んっ?』と乗り出させるような気持ちにさせたいと常に心掛けています」例えば、ジャケットのラペルの裏の切り替えに生地の裏面を使い、動いたときに光沢差を見せるなど、ちょっとしたテクニックや変化を施すことも。「それだけでも服に鮮度があると感じます。おもて面だけがすべてではないと」また特に難しいというジャケットは、同じパターンをしていても生地はもとより芯地や肩パッドなどの付属でガラっとシルエットが変ってしまうそう。「そういうところが服作りの難しくも、楽しいところなのだと思います」
企業に入ったことで経験できる、多くの人との出会い
布帛・カットソーを手掛ることが多い長谷川さんにそのおもしろさを尋ねてみた。「店舗数の多さもあって、生地を作る際に糸から素材開発できたりという、大変貴重な経験をさせてもらっています。この糸を使って、こんな織り方、編み方をしたいといった提案をすると、取引先さんからは『では、こういう風にやっていきましょうか』など新たな方法を知ることもあります」会社にいるだけでは話せない、職人と呼ばれる人たちとの関わりで、物作りの楽しさをさらに広げているようだ。「物を作っている者同士なのでマニアックな部分まで垣間見ることができて、とてもおもしろいです」
相手に伝わるもの作りを目指して
今後は、自分だけが納得するのではなく、相手にも納得し想像してもらえるような仕事のスタイルを目指していきたいという。「例えば言葉で、こういうものを作りましたと、会議の場で言ってもショップで販売する人はそこにはいません。その人たちが服を見ただけで『この服はここを伝えたいな』と自ら想像してもらえるような服を作っていければと思います」街で自分が作った服を着ている人を見たとき、「こんな着こなしを提案してくれたんだ」と嬉しくなることがあるそう。「ショップの方は販売のプロなので、自分が思っている以上のことを伝えてもらっていると感じます。それならそれ以上に応えられるよう、街で出会ったことを喜ぶだけでなく客観的に見直し次ぎの商品に活かせるよう心掛けています。今、こういうスタイリングなら次には、こういったパンツを作れば合わせやすいだろうって」
ライフスタイルを考えたデザインの提案を
面接のときはメンズがやりたいと伝えたそうだが、会社に入った今は、レディスや子供服にもおもしろさを感じているという。「“TAKEO KIKUCHI”に来るお客さまは、彼女と一緒の方もいれば、ファミリーでいらっしゃる方もいます。そういう人たちがどういったライフスタイルを送ってこのお店に来てくれているかを最近よく考えています」また、デザイナーとなって活躍している今、学生時代の授業の重要性を感じることもあるという。「素材論は役に立ちます。メンズだけでなくレディスも含めですが、素材によって落ち感、張り感、硬さなどいろいろ違ったりします。それらをどう使って、どう加工すれば効果的とか、そういうことのベースを学べることの出来た社会に出て即役に立つ授業だったと思う機会よくあります。なので、ぜひ積極的に学んでください」
※この取材内容は2010年1月時点のものです。
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亀井 勝利
2005年
営業
“株式会社ドゥースリー”
人と人の間に立つ“営業”という仕事
アパレルブランド向けのテキスタイルの企画・製作や、オリジナルテキスタイルの販売を行う株式会社DEUX.THREE(ドゥースリー)で、営業として働く亀井勝利さん。アパレルメーカーと工場の間に立ち、デザインを担当する社内の企画スタッフと連携を取りながら、主にレディースのプリント地を作るためのさまざまなハンドリングを行っている。「人に何かを伝えたり、交渉したりすることが多いので、“物事をいかにうまく伝えるか”が問われる仕事です。自分はドゥースリーに入って3年目ですが、まだまだ勉強することばかりです」
素材の特性を知ることが第一歩
営業という仕事は、言葉ひとつで大きなトラブルにもなりかねない仕事。アパレルメーカーにプレゼンをするときは、“この生地はドレープが出るのでドレスに向いている”など、素材の特性を伝えるようにしているそう。「お客様に納得してものづくりをしてもらうためにも、糸がどうやって織られているかなどを伝える必要があります。ただしお客様側の意向もあるので、全てを話せばいいというわけではありません。“どこまで情報を知らせるか”は状況に応じて判断すべきことですが、そのさじ加減はいつも悩むところです」
生地が出来上がったときが至福の喜び
ドゥースリーの営業はチーム制ではなく、担当者が“個人商店”のように受注から納品までをひとりで請け負う。そのためトラブル時も状況を自分で判断し、対処しなければならない。「かなりプレッシャーを感じます」と言う亀井さんだが、生地見本ができあがった瞬間は日々の苦労を忘れられるひととき。「プリント図案はまず紙の上に起こすのですが、それが生地に乗ると感じがまた違ってきます。プリントがイメージ通りにできているかどうか緊張する瞬間でもありますが、実際の生地を見るとやっぱり嬉しくなります。そして、出来上がった生地をお客様に気に入っていただけたら本当に最高ですね」
学生時代からテキスタイルの道を意識
亀井さんは学生時代の途中までデザイナーを目指していたが、次第に興味は素材へと移行。課題を制作するときも、シルクスクリーンでオリジナルのプリント地を作ったり、素材にペイントしたりするなど、テキスタイルにこだわるようになったのだとか。「2年生のころからテキスタイルの道を意識し始めて、素材の本を見ては『北欧のテキスタイルはかわいいなぁ』なんて思っていました。でも自分で言うのもなんですが、あまり真面目な学生ではなかったと思います(笑)。友だちと喋っているだけで楽しくて、毎日ハイテンションで大騒ぎしていました」
テキスタイルに携わっていられたら幸せ
現在、テキスタイルの工場がどんどん少なくなっているという厳しい状況があるが、アパレル・テキスタイル業界を活性化させるようなものづくりをしていきたい語る亀井さん。「自分はデザインの勉強をしていたので、素材のことだけでなく『この素材はこういうデザインに適しています』といった、少し突っ込んだ提案ができるところが強みかなと思います」。休日買い物に行っても「このブランドは価格の割にいい生地を使っているな」などと、ついつい素材に目がいってしまうほどテキスタイルが大好きな亀井さん。「自分が今後どうなっていくのか分からない部分もありますが、とにかく素材に関わっていられたら幸せです」
※この取材内容は2010年1月時点のものです。
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木村 晶彦
2005年
ファッションデザイナー
「LOKITHO」(ロキト)
成熟した大人のための服作りを行う
2010春夏コレクションでデビューしたブランド「LOKITHO」(ロキト)。そのデザイナーであり、運営を行っているのが木村晶彦さんだ。ブランド名の「ロキト」とは、北欧神話の火の神「ロキ」をアレンジしたものだが、特に深い意味はなく、言葉の響きが気に入りなんとなくつけたそう。「あえて何語でもなく、意味もないというものにしたかったんです」。また、ブランドコンセプトは「For witty women」。「機知のある、大人の女性をイメージして服作りをしています。大人といっても年齢ではなく、皮肉も面白く言えるような、内面的に成熟した女性…という感じでしょうか」
デザイナーとして、経営者として
木村さんはデザイナーであると同時に経営者でもあるため、もの作りだけに集中できないことも多い。特に営業は初めての経験であり「性格的に向いているとは言えませんね」と笑う木村さんだが、「営業代行をお願いすることもできますが、まずはひと通り自分でやってみることが大切かなと思っています」と語る。そんな自分について、「何事もじっくり考えるタイプ」と分析する木村さん。ブランド運営の面でもクリエーションの面でもいろいろ思い悩むというが、「あまり考えすぎても前に進めないので、よく考える部分と、あえて考えないようにしている部分とがあります。でもついつい、いろいろ考えてしまうんですよね」
大勢の人にコレクションを見てもらいたい
取材に伺ったときは、2010-2011秋冬コレクションの制作中だった木村さん。「次回のコレクションでは、ちょっとひとくせある、深みのある素材にこだわっています。見た目や色が面白かったり、タッチに特徴があったりする素材から発想を得ています」。なお、デビューコレクションでは自身のアトリエで展示会を開いたが、より多くの人に自分のクリエーションを見てもらうために、次回は合同展示会への出展を予定しているとか。「今はいろいろ試行錯誤している段階ですが、あまりのんびりもしていられないので、限られた機会や予算をどう生かしていくか、経営者としてよく考えねばならないと思います」
服作りにのめり込んだ学生時代
木村さんは大学時代にファッションの道を志し、卒業後に文化に入学した。「専門学校に入り直すのには決心が要りましたが、ファッションはまったく未知の分野だったので、一から勉強しないとだめだろうなという思いがありました。自己流で突き進む人もいると思いますが、自分は確実に夢を実現できる方法をじっくり考えました」。実際に入学してみると、生地選びやデザイン、パターン、縫製などすべてが初めての経験だったが、やればやるほど面白く、木村さんは服作りにどんどんのめりこんでいった。「装苑賞への応募もそうでしたが、かなり真剣に服作りに打ち込んでいたと思います」
着実にブランドの体勢を整えていきたい
ブランドを立ち上げて周りから「おめでとう」と祝福されることが多いという木村さん。しかし、「立ち上げ自体はそれほどおめでたいことではなく、やっとスタートラインに立ったという感じでしょうか。商品がたくさん売れたり、商品を買ってくれるお店が決まったりしたとき、はじめて本当に『おめでとう』なんだと思います」と、冷静に自分の状況を見つめる。「今は展示会でもなんでも、ブランドや自分のもの作りを知ってもらえる場を作っていきたいと思います。そして、将来的にはスタッフを増やし、社内でひと通りの制作ができる体勢が整えられたらいいですね」
※この取材内容は2010年2月時点のものです。
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笹川 雄
2005年
店長
“ato”渋谷パルコ店
パルコ内にあるショップという強みを生かして
身体を個性の象徴と捉え、一つ一つのパターンにこだわりを持ち、服作りに取り組むブランド“ato”。笹川さんは数ある“ato”のショップの中で、渋谷パルコ店で店長を務めている。主な仕事内容を聞くと「まずは、当たり前ですがショップを開けること。パルコは館なので10時には必ずオープンします。遅れるということはできませんので、そういう責任感がまず大事です。そして、ショップをきれいに掃除することも基本。午前中はあっという間に過ぎていきますし、午後はお客様が多くいらっしゃるので接客を中心にしながらも、その他書類業務なども平行して行ないます」また、フロア同士のつながりもあるそう。「今日はこれが売れているという情報交換をしたり、他店とフォローしあうことも強みになっていると思います。最近は海外からのお客様も多いので、フィーリングと片言の英語でコミュニケーションをとりながら販売しています」
接客のおもしろさと難しさを学んで
入社して2年半が過ぎ、昨年の11月に店長となった笹川さん。やりがいのあることを聞いてみると「接客です。徐々に顧客様になってもらえるのはうれしいです。それに、普段の生活では出会えないような人たちと話せるのもおもしろい」という。場所柄、スタイリスト、タレント、企業の社長なども来るそうだ。「17年続いているブランドですので、10代~50代まで幅広くいらっしゃいます。渋谷パルコ店はまだ3年目ですが、ここで買いたいという方も増えてきています」逆に、難しいことを聞いてみると「それも接客です。楽しいけれど、話して終わってしまうこともあります。ショップでは売り上げがついてこなくてはいけないので、そこまで至らないときは、難しさを感じます」楽しくもあり、難しいとも答える“接客”を、店長として接客的に取り組んでいるようだ。
ショップ以外でも多くの経験を積むことに
ショップでの仕事だけでなく、“ato”のコレクションが開催されるときは、会場で受付に立つこともあるそう。「見に来る方々は、プレスやバイヤーのほか、顧客様もいらっしゃいます。その場合は、やはりお客様と直に触れ合っているショップスタッフが立ち会わないと、スムーズにご案内ができません」“ato”スタッフが集まり、ひとつのショーを作り上げていく過程に立ち会えたのは、とても印象に残っている仕事のひとつだったという。「以前から、人と話すことが好きで、そして服の勉強もしていて…。それらを生かせるようにと考えてこの会社に入りましたが、コレクションを始め、それ以上の経験を積むことができています」
お客様の似合うものをオーダーできる喜び
渋谷パルコ店で取扱われる商品ラインナップ。これは“ato”の展示会の際、笹川さんが予算内に合わせてオーダーを付けているそう。「同じ“ato”でも、各店によってお客様が違うのでそこの特色に合わせたアイテム構成が必要です」以前は、展示会に同行していくスタッフだったが、今ではすべて任されている。「以前の店長は女性だったので、女性の意見がないときに不安を感じることもありますが、自分が“このお客様に似合うだろう”と思ってオーダーしたものが、売れていくときはとてもうれしい。現場に立っている人が、お客様に一番近いから」店長になってからはアイテム配分まで考えるようになり、さらにやりがいを感じているようだ。
ブランド全体を盛り上げていくために
笹川さんに学生時代にするべきことを尋ねてみると、「思い立ったら吉日!ではないけれど、その日に行動に移すのは大事です。自分もそういう風にするのが苦手だったので…。あのとき、ああすればよかったと思わないように。やらずに後悔するよりは、やって後悔するほうが先に進めます」確かに、人が好きで服が好きという思いから現在、店長になり仕事の幅が広がってきている笹川さんならではのコメントだ。今後の目標を伺うと「売り上げを伸ばしていくというのは大前提。“このぐらいは売って欲しい”というのは、どこの会社にもあること。それを毎月クリアにしていくことも大事です。それに“ato”の中でも一番売れるショップにしていきたいという思いを持つことで、スタッフ同士が気持ちを高めあって、ブランド全体を盛り上げていくことが夢です」
【参照元】文化服装学院HP Next
久岡 愛
2005年
ウェブ制作・編集
日本ファッション協会
東京のファッションシーン見つめ続けてきたサイト
東京のリアルなストリートファッションを観測し発信し続けているウェブサイト「スタイルアリーナ」。その制作と編集業務を行っている久岡さん。このサイトを運営しているのは、色彩検定などでもおなじみの、日本ファッション協会だ。そう聞くと敷居が高そうなイメージがあったが、サイトを覗いてみると、お堅い感じは全くなく、ストリートスナップをはじめ、現在の日本のファッションシーンを見つめることの出来る興味深いサイトだ。「当初からストリート系なんですよ。ユーザーさんも若いので。何年も続いているサイトなので、あとから見返してみたときに、『こんなのが流行っていたんだ』というのがわかっておもしろいですね」。
デザイナーアシスタントとしての経験
文化ではアパレル総合科でデザインやパターン、MDなど幅広く学んだという。そして卒業が間近に迫った頃に、装苑を見ていて目に留まったブランドに電話をして売り込み、アシスタントとして就くことに。アシスタント業務は大変なこともあったようだが、その経験は久岡さんにとって決して無駄ではなかったようだ。「アシスタントをしていた時の経験がすごく今の生活に役に立っていると思います。学ぶことも多くて、いい経験が出来たと思っています」。アシスタントを2年ほど続けた後も、別ブランドのデザイナーアシスタントをするなどして過ごすが、興味は編集の仕事へと向いていた。
夢だった編集の世界へ
「本が好きだったのもあって、編集の仕事がしたかったんです」。アシスタントやアルバイトをしながら就職活動もしていた久岡さん。その時に、日本ファッション協会でストリートスナップのアシスタントの募集を見つけ、応募したのがきっかけだ。そしてアルバイトとして在籍した後に現在は契約社員として働いている。「正社員ではないので、他の仕事もやってもいいということにはなっているんですけど、忙しいので結局社員みたいに毎日ここにいますね(笑)」。仕事内容としては、画像処理やウェブの素材を作ったり、アポ入れから取材、撮影、記事のライティングまでをこなし、現在は「SHOP STYLE」というショップ紹介のコーナーと、東京コレクションのレポートを担当している。
1人で回す大変さとやりがいを実感
「最初は何を書いたらいいのかもわからなかったし、だけど人も少ないので一からじっくり教えてくれるわけでもなく…。自分で本を読んだりしながら学んでいきました。もちろん参考になるウェブマガジンやブログもマメにチェックしています」。1人で一通りの業務を行っていることもあり、やはり大変なこともあるようだ。「スナップもショップ取材も毎週更新なので止められないんですよ。アポも自分で行かないといけないので、アポが取れない時はちょっと滅入ることもありますね」。しかしもちろんやりがいもある。「まず取材先の人に『取材してくれて嬉しい』と言われたらこちらも嬉しいです。それからユーザーさんから『いつも見てます』と言われるのも嬉しいですね」。
興味のあることを発信していきたい
ずっと憧れだった編集の仕事に就いた久岡さん、しばらくはこの仕事を続けていくそう。他にやってみたいことを聞いてみると、「やっぱり雑誌の編集がやりたいですね。本が好きなので。できればファッション誌がやりたいです」。さらに友人達と計画中のものがあるようで、「ウェブマガジンみたいなちゃんとしたブログをやりたいと思っているんです。音楽やアートなど、気になるカルチャーを発信していきたい」。久岡さんは新しいものが好きで私生活でもネットを多用しているそう。最近は海外のブログを見たり、ツイッターなどのSNSサイトを通じて情報収集をしているとのこと。「この先何をするかはまだわからないけど、色んなことに興味があるので、それを発信できる何かができたらいいなと思っています」。
※この取材内容は2010年3月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
伴野 悠
2007年
プレス&ショップスタッフ
Time is on
ふとした偶然から今のショップに入社
就職を意識し始めたファッションビジネス科2年の夏、ふらっと入ったショップの格好よさに強く惹かれた伴野さん。思い切ってスタッフに求人について尋ねたところ、ちょうど人材を募集していることが判明。そして、その数日後に面接を取り付けた伴野さんは、とんとん拍子に就職を決めてしまう。それが、現在働いているTime is on。「面接で分かったことですが、以前近くにあった系列店で今の店長の接客を受けていたんです。しかも、面接に履いていったのは偶然にもそのとき買ったパンツで、店長がそれに気づいて自分のことを思い出してくれて……なんだか運命を感じました」
接客だけでなくプレスや買い付けも担当
Time is onは60~70年代をベースに、トレンドのエッセンスを加えたスタイルを提案するセレクトショップ。伴野さんが60~70年代に興味を持ったのは、文化の授業で当時のファッションについて学んだことがきっかけだそう。「モッズの間でフレッドペリーが流行ったといった時代背景を学んだことで、当時のファッションだけでなく、カルチャーにも興味を持つようになりました」。現在、Time is onには伴野さんを含めて5名のスタッフがいるが、各自の担当業務ははっきり線引きされておらず、プレスや買い付けもローテーションでおこなっている。「特に買い付けに関しては、店頭に立つスタッフが海外の様子を直接見ることで、雑誌を見たり人から伝え聞いたりするのではない、説得力のある接客ができるのではないかと思います」
一番大切なのはお客様の存在
プレス業務では、雑誌やウェブなどに掲載する商品の貸し出しをおこなっている伴野さん。ただしお店のイメージを優先させるため、貸し出しを断念することもあるとか。「断るというとえらそうに聞こえるかもしれませんが、そうではなく、お客様のお店に対するイメージを壊したくないだけなんです。お客様が雑誌やウェブに載ったうちの商品を見たとき、格好いいと思ってくれるかどうかを基準にものごとを判断しています」。また顧客の気持ちを第一に考え、知名度を上げるために大きく宣伝を打つこともしないという。「不特定多数に向けたお店ではありませんし、中には何十年と通ってきてくださっている方もいるので、今のお客様の存在を大切にしたいと思っています」
お客様とはできる限り対等に接したい
お客とスタッフも、結局は人と人との関係。伴野さんは、「お客様とは、できる限り対等な関係でいるのが理想です」と言う。実際Time is onのスタッフとお客の垣根は低く、ふらっとお店に来た常連客と世間話をしたり、学生のお客さんの就職相談にのったりすることもあるのだとか。「ブランドを売るのではなく、服をどう着るかというスタイリングの提案をしたいと思っていますが、お客様と日ごろから信頼関係が築けていれば、こちらの提案やアドバイスに真剣に耳を傾けてくださると思います。あとは、お客様を飽きさせないことが大切ですね。早い頻度でお店のディスプレイや商品を変えたりして、来るたび新しい発見があるように心掛けています」
洋服にこだわらないスタイル提案をしていきたい
お客さんが商品を買ってくれて、お店を出るとき笑顔になってもらえることが何よりの喜びだという伴野さん。「お客様に満足してもらうためには、相手の気持ちをくみ取り、そのつど接客のスタイルを変える柔軟性が欠かせません。一見シャイな人でも話かけていくと心を開いてくれることもありますし、ときには適度に放っておくことも必要ですし、これだという答えがないのが接客だと思います」。今後は店舗を増やし、Time is onというショップのコンセプトを多くの人に伝えていきたいと語る伴野さん。「ファッションは服だけではないと思います。映画や音楽、食など、まだ日本に入っていない海外の文化をグローバルに発信できるショップにできたらいいですね」
※この取材内容は2010年4月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
吉井 恵里奈
2008年
スタッフ
MAIN by VINTAGE DECOLLER
直感とタイミングで決まった仕事との出会い
高感度なショッピングエリアのイメージが強い代官山に、このほどオープンしたばかりのヴィンテージショップ「MAIN by VINTAGE DECOLLER」。そこでスタッフとして働いている吉井さんは、文化卒業後は某大手企業のセレクトショップで販売スタッフとして2年間勤務していた。そして退職したのとほぼ同時のタイミングで、現在のショップで働くことが決まったのだとか。その経緯が実に興味深く、「もともと自分が住んでいる家の近所にお店があったんですけど、そこに初めて入ったときに直感で『このお店で働きたい!』って思ったんです」と言う。そして自らオーナーにアプローチをし、前職を退職したタイミングでオーナーから新規オープンの話をいただいたのだそう。
もともと興味のあった服作りに携わりたい
ビジネス科ではマーケティングなどを主に勉強してきた吉井さんだが、もともと服作りに興味があったことや、販売だけの仕事に疑問を感じるようになっていた。「2年間働いた販売を辞めるときには勇気がいりましたが、何か作り手にもなれるような職業に就きたかったんです」。文化に在学中は課題が多くハードだったとのことだが、市場や流通について勉強できたことは前職でも現在の仕事でも役に立っているようだ。さらに「1年のときに基本の縫製で服の構造を学んだことは今とても役に立っていますね。ヴィンテージアイテムは作りが変わっている物があったりもするんですけど、そういった物も臨機応変に相談しながらリメイクをしています」。
リメイクする楽しさと仕事のやりがい
現在ショップで働くスタッフはオーナーと吉井さんの2人。ショップではヴィンテージアイテムのリペアや、解体してサイズを変えたり、デザインに手を加えるなどのリメイクを施している。アイテムを洗濯したり、ショップのタグを付けたりもするようだ。さらに基本的なお直しは無料で行っているとのことで、「お客さんの希望に合わせて、デザイン変更でない限りのお直しは無料で行っています。そこが他のヴィンテージショップとは違うところかもしれないですね」。もちろん接客や店内のディスプレイ、今後はブログの更新なども行っていく。「家でミシンを動かすことはありましたが、今いろいろと教えてもらいながらリメイクなどもやっていて、すごくやりがいがあるし、とても楽しいですね」。
都会的なヴィンテージアイテムを発信
店内には買い付けしたインポート商品もあれば、オーナーが作ったものも置いている。「もともと池尻大橋にお店があったんですが、立地的なこともあり、地域密着型な感じでしたね。それはそれでよかったんですけど、もっとヴィンテージを広めたかったし、更なるステップアップとして買い物エリアである代官山に移転することになったんです」。代官山のショップは大通りに面していることもあり、店内も明るく、買い物ついでにも入りやすい。「うちのお店は海外のスウィートルームを内装のコンセプトに、白い絨毯やシャンデリア等、高級感のあるヴィンテージショップで、商品のコンディションも良いものが揃っています。アイテムもテキスタイルがカラフルで都会のリゾートっぽいテイストのものが多いので、立地も代官山の方が合う感じがしますね」。
ヴィンテージの魅力をもっと広めていきたい
自分でリペアやリメイクをしているアイテムが多いので、以前よりも接客の際にアプローチがしやすくなったとのこと。もともと海外に興味があり、インポートアイテムが好きなこともあるので、ゆくゆくは買い付けをしたり、自分でオリジナルの物も作りたいという吉井さん。「日本ではヴィンテージというものがあまり広まっていないので、実際に自分で1点しかない物を見つける楽しさだったり、日本にはないテキスタイルだったり、そういう物を身に付けたいと思っている人が少ないように感じるんです。古着というスタンスじゃなくて、ヴィンテージという捉え方でもっとたくさんの人に浸透していったらいいなと思います」。
※この取材内容は2010年5月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
新ヶ江 沙都
2009年
ニットDIV. デザイナー
クロスプラス東京
未知のジャンルだったニットの仕事に就く
アパレル企業のクロスプラス東京に勤務し、ニット部署のデザイナーとして働く新ヶ江さん。文化に在学中に行っていた就職活動で様々な会社を受け、一番初めに内定をもらったのが現在の会社だったようで、それが入社のきっかけとなった。新卒で入社し今年で2年目となるこの仕事だが、それまでニットに関しての知識やノウハウなどはほぼ無く、一から学んだことばかりだったようだ。 在学中はデザインを専攻していたがニットの勉強はほとんどしていなかったので、ゼロからスタートしたようなものだった。「最初はもう何もわからなかったですね。文化でデザインの勉強はしてきたけど、ニットに関しては入社して仕事をしながら覚えていったという感じです」。
素材作りから始まるニットデザインの奥深さ
ニット部署にはデザイナーが7人在籍し、新ヶ江さんはエレガンス系を担当している。仕事の内容としては、デザインから生産までの一連の流れを全て行っている。通常のアパレル企業であればデザイナーと生産は担当が分かれることがほとんどのようだが、それを全て担うとなるととても大変そうだ。「本当に幅広く仕事を任されるので、多くのことを把握し、仕事量も多くて結構ハードですね」。デザイナーの仕事としては、まず糸を選ぶことから始まり、糸の番手や組み合わせなどを考えながらデザインにはまる素材を当て込み作り出すことから始まる。「染色もするので、単なる形だけじゃなく、風合いや色などもデザインに大きく影響するので、素材からのスタートでとても作り応えがあります」。
ハイペースな展示会に向けて多忙な日々
生産までの大まかな流れとしては、展示会を行い、クライアントであるメーカーとサンプルも用いて商談をし、修正後、生産に至る。しかもクロスプラスでは2ヶ月に1度のペースで展示会を行っているとのことで、かなりのハイペースで商品が生産されているようだ。「展示会が終わったと思ったらもう次の展示会に向けて動くのでとにかく忙しいですね」。展示会で受注を受けてそのまま生産することもあるようだが、メーカーから別注のオーダーを受けて形(デザイン)を変えて生産することも多いのだそう。商品の半数近くは量販店へ生産しているが、それ以外にもジュンコ シマダやアツロウ タヤマなど、デザイナーブランドのOEMも行っている。
感謝の気持ちと向上心を持って仕事をこなす
中国やベトナムなどに生産工場があり、直接工場の人とデザイナーがやりとりをし、洗濯ネームの印字の内容までをデザイナーが指示する。このように幅広い業務を行っている新ヶ江さんは、「日々流れるように過ぎていきますね」と言う。さらには工場側とクライアントの要望との間で板ばさみ状態になったりもするようだ。しかし大変なことばかりではない。「メーカーさんが丁寧に言ってくれるし、ニットの作りなども勉強させてもらっているし、感謝してます。それから、『新ヶ江さんは指示も細かくしてくれるし、聞いたらすぐに答えてくれるからみんな褒めてますよ』って言われたときには嬉しかったし、頑張ろう!と思えました」。
下積みを経て将来のビジョンを描いていく
文化時代は遊ぶよりも必死に課題に取り組み、まじめだったという新ヶ江さん。「日頃から良いものに触れられていたので、見る目が養われたと思うし、感性も磨かれたように思います。本当に色んなことに感動していたし、人生の中で一番充実してたと思えます」。そんな新ヶ江さんが思い描く今後のビジョンとは…?「まだ自分に何が出来るのかわからないので、まずは下積みが必要だと思っています。ゆくゆくは自分の感性をもっと磨いてそれを生かした自分にしかできない仕事がしたいですね。小さくてもいいので、地元でお店をやりたいなと思ったりもしています。まだまだこれからなので、とにかく吸収できるものはすべて吸収して、経験を積んでいく中で道筋も立てていこうと思っています」。
※この取材内容は2010年5月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
李 珍性
アリサナデザイナー&OEMパタンナー
"株式会社 美ショウ"
服作りの現場を学べるOEMの会社に入社して
大手ファッション企業のブランドから依頼されたデザインを、パターンに起こして商品化し、出荷するまでの一連の業務を請け負う「株式会社 美ショウ」。そこでパタンナーとして活躍する李さんの仕事の幅は、とても広い。「入社してからの研修期間は社内にある、裁断、縫製現場、事務所でのデスクワーク、出荷の4つの部門を一通り経験した後に、パタンナーとして働き始めました」最初は、その作業が何のためにしているのかわからなかったそうだが、だんだんと仕事の流れが掴めてきたという。「今は、トゥモローランドのブランド"ボールジー"のカットソーを担当しています。展示会が近いときは一番忙しいですね」
様々なブランドの服を手掛けられるおもしろさ
OEMのパタンナーの仕事は、依頼するブランド側が何を求めているかを瞬時に察する能力が必要とされる。「ブランドからイメージのマップや絵型が届きます。それからファーストサンプルを作り、展示会前にはブランド担当者と一型ずつ打ち合わせをして3~4回の修正を重ねていきます。その後、量産するための生地でもサンプルを作り、修正を加えていきます」そういった積み重ねをしていくことで、どういうものが流行っているかなど、トレンド分析をしていくこともできるそうだ。「依頼された指示書が大まかで"雰囲気を出して"といわれたときに、自分なりに考え、思い通りのものができて、それが相手にも満足してもらえたときは嬉しいですね」
自社ブランドの子供服デザイナーを任されて
パタンナーとして入社した李さんだが、企画の仕事にも以前から興味があった。そんなとき自社ブランドで子供服を立ち上げることに。「弊社でブランドをスタートさせるのは初のことで、私自身も子供服を作った経験といえば、学校の教科書で学んだことと、文化祭のバザー商品制作だけでした」(笑)。そんな手探りの状況の中、姉妹の物語をイメージした「arisana(アリサナ)」をスタート。「子供服を作るなんて、思ってもみませんでしたが、自分が成長できると感じられてやりがいがあります」
パタンナーとデザイナーの仕事を両立中
「arisana」は現在、ネット販売を中心としている。女の子のお姫様願望を叶えてくれるふわふわしたドレスが中心。「バランスがとても難しいですね。かわいいと思ってアレンジをすると、数ミリで見え方が変わる。レディスの服と違って、パターンのデータが何もない状態だったので、教科書を見ながら原型をCADで引くことからスタート。文化の教科書は役に立ちましたよ」スタジオで、子供モデルを使っての撮影に立会いするという経験もした。「OEM会社にパタンナーとして入社して、ここまで携わることができるなんて思ってもいませんでした」今年の秋冬には、男の子の服にも力を入れていくそうだ。
韓国、アメリカ、そして日本の架け橋になりたい
韓国の大学で衣服学科を卒業後、テキスタイルデザイナーとして働いていた李さん。日本に行きたいという夢を叶えるために韓国での仕事を辞めて日本へ。日本語学校卒業後、文化で様々なことを学ぶことになる。「自分が苦労した作品、袖山がどうだとか、この材料はどこで手に入るのか?とか。そういったすべての過程が、仕事へつながります。今、悶々と悩んでいる学生に"それは将来、役に立つ!"と伝えたいですね」いつかは文化時代の日本の友人とブランドを作りたいそう。さらに日本でセレクトショップを出せればと、夢は膨らむ。「母は画家なので、自分の働いたお金で母の絵を買い、それを将来の自分の店に飾りたいです。今、家族はアメリカに住んでいるので、韓国からもアメリカからもお客さんが訪れてくれる店になれれば嬉しいです」
※この取材内容は2010年6月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
後藤 里奈
2009年
ディアマン デザイナー
アイア株式会社
デザイナーとして勉強の日々
アパレルメーカーのデザイナーとなり、今年で2年目を迎える後藤里奈さん。担当するブランドROUGE DIAMANT(ルージュ ディアマン)のデザインは現在、後藤さんと先輩デザイナーの2名で行っており、年4回のサイクルで出される新作の制作に追われている。デザイナーといっても絵型を描くだけでなく、サンプル作成のための仕様書を書いたり、リボンやスパンコールなどの付属品の手配、繁忙期には店頭に立ったりするなど担当業務は幅広いようだ。「学生時代に専門的に勉強していないニットデザインなど、入社してから覚えたことも一杯あります。入社当初は戸惑うこともありましたが、今はいろいろなことを吸収していきたいという気持ちです」
職場でもおしゃれでいたい女性がターゲット
ルージュ ディアマンのターゲットは主に働く若い女性で、シンプルだが、ディテールでかわいらしさを表現したアイテムを提案している。「ジャケットの袖をまくるとかわいい裏地がちらっと見えるような、会社でさり気なくおしゃれ感をアピールできるデザインを心掛けています」。また、世の中の動向や消費者のニーズを把握してデザインに生かすために、さまざまなジャンルのショップをリサーチしたり、雑誌をチェックしたりしているのだとか。「お店に行くときは商品を見るだけでなく、実際に試着してサイズ感なども確かめるようにしています」。ちなみに今後はブランドのターゲット層を広げるために、オフィスウェアに加え、これまでよりも休日用のカジュアル・リラックスウェアを増やしていく予定だそうだ。
中国の工場とのやり取りに奮闘中
最近は中国の縫製工場との取引が多く、日本語ができる中国人スタッフと電話でやり取りする機会も増えてきたと後藤さん。「電話なので意思疎通に苦労することもあり、思い通りのサンプルが上がってくるまでは不安で一杯です」。そして、上がってきたファーストサンプルは後藤さん自ら身につけて上司のチェックを受け、さまざまな調整が行われた後にセカンドサンプルの制作、その後ようやく展示会にこぎつけることになる。「展示会での反応がいいと、デザイナーをやっていてよかったと思います。でも逆に、反応が悪いとボツになるものもあります。絵型ができてからひとつの商品が店頭に並ぶまでには、本当に長い道のりがあるのだと日々実感しています」
幼いころから夢はデザイナー
ファッション好きのお母さんの影響で、物心ついたころからテレビのコレクション番組を見ていたという後藤さん。デザイナーを目指して高校の服飾デザイン科に進学し、その後の進路を決めるときも半ば当たり前のように文化を選択。文化に入学後は授業だけでなくショーなどのイベントにも積極的に参加し、多くの人たちとものづくりをする醍醐味を味わった。「みんなでショーを作り上げることが楽しくて、忙しさも苦になりませんでした。ショーのときのメンバーとは今でもつながりがあり、休日に会ってお互いの仕事のことを話したりします。仕事で大変なことがあっても、仲間と美味しいものを食べれば元気になれます(笑)」
ブランドとともに成長していきたい
後藤さんに今後の目標を聞いてみた。「ルージュ ディアマンは出来てまだ若いブランドなので、これからはもっとブランドの知名度を上げて、店舗数も増やしていきたいです」。ブランドのアイテム数が多く、絵型のバリエーションを考えるときは頭が混乱することもあるというが、洋服やかわいいものに触れていられれば幸せで、仕事とプライベートの線引きもあまりないという。「休日に市場調査を兼ねてショッピングに行くときも、仕事しているという感覚はありません。とにかく、私はデザイナーとして歩き出したばかりです。これからもさまざまなことを勉強して、ひとりのデザイナーとしてももっと成長していけたらと思います」
※この取材内容は2010年6月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
張 世美
2009年
OEMパタンナー
"株式会社クリエイトルーム"
将来を見据えた、パタンナーとしての再スタート。
文化を卒業後、デザイナーとしてアパレルメーカーに入社した張さん。学校でもデザインを中心に勉強してきた張さんが、数多くの一流ブランドを取り扱う「株式会社クリエイトルーム」のパタンナーとして働くきっかけになったのは、「デザインだけでなく、服作りの基本であるパターンメイキングの経験を積みたい」という思いからだったとか。「1月に転職したので、まだ仕事の流れを掴めてきたところなのですが、いつかアメリカで写真の勉強をしている姉と洋服のブランドをつくるのが夢なんです。姉も写真学校を卒業したばかりなので、お互い納得できるまでキャリアを積んでから実現したいと思っています」。
より正確さが求められるOEMのパターンメイキング
服飾専攻科の授業でもパターンを引いてきた張さんですが、OEMのパタンナーの仕事を手がけるようになって基本の大切さを実感していると言います。「ブランドからデザインの指示書をもらい、その指示書に従ってパターンを起こして、ファーストサンプル、セカンドサンプルを作り、デザイナーに確認してもらいながら、その都度修正を加えていきます。量産されるものなので、数ミリのずれでも洋服の仕上がりに影響してしまうため、より正確さが求められます。1、2年生のときに授業で習ったスカートのベンツの縫い代のつけかたや、ジャケットの芯を貼る部分など、一番の基本が今、生かされています」
人とのつながりを大切にしながら向上していきたい
パタンナーは、デザイナーからの指示書からイメージを膨らませて要望を汲み取ることが醍醐味とも言える仕事だが、縫製工場のスタッフに伝える仕様書を作成するのも大切な役割。「パターンに添える仕様書の作成も初めての経験でした。"誰が見ても分かるように"書き方を自分なりに工夫しているのですが、それがなかなか難しい」張さんが手がけた作品はまだ10着ほど。パターンを起こすところから検品まで関わるので、先輩からの教えなど、すべてが経験につながる。「パターンチェックで上司に指摘されてから気づくことがけっこうあるので、上司に言われる前にチェックできるように早くなりたいですね」
文化出身の先輩や同級生たちとの充実した日々
大阪に本社を構える「株式会社クリエイトルーム」の渋谷オフィスに勤務する張さん。渋谷オフィスは、生産管理、スポーツブランド、パタンナーの3つの部門で構成されていて、パタンナーは文化出身の先輩と同級生を含む5名で担当しているそうだ。「学校の話で盛り上がったりすることもあります。私は中途採用だったのですがパタンナーの経験はなかったので、入社したときに、未経験でも一から仕事を学べる機会をいただいて、感激したことを覚えています。CADなど、パタンナーの基本的な仕事を一通り覚えるまで丁寧に教えていただいて、とても感謝しています」
休日はデザインのインスピレーションが湧く場所へ
張さんが洋裁に興味を持ったのは16歳のころから。人形の洋服を作りながら、いつか人の洋服も作れるようになりたい、とこの道を目指したそうだ。目下の目標は、張さんが作った服をお姉さまが撮影した写真集を作ること。「本当に普通のコンセプトなんですけど、シンプルだけど一着持っていればいろんなコーディネートが楽しめる服。あま り見かけないデザインだけれど、普通の人が着こなせる難しくない服、がいつかつくりたいと思っているブランドのイメージ。両親が暮らす釜山、姉が暮らすアメリカに出かけるのも楽しみで、いろんなアイデアが出てきます。特にニューヨークは毎日がひらめきの連続でした!」
※この取材内容は2010年8月時点のものです。
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関 徹
2004年
デザイナー
株式会社SAN'S
アメリカでの経験を生かしてリメイクを担当
新ブランドながらこの1年で急成長を遂げているブランド「harukaze」のデザイナーとして活躍する関さん。文化を卒業後はブランドflowerをメインに、リメイク商品や古着、オリジナル商品を展開するソラオブトウキョウに入社、企画を担当しデザインから納品までを担っていた。当初は販売からのスタートだったが、半年くらいが経った頃、アメリカに飛ばされて1ヶ月ほど滞在しながら、古着をひたすら洗ったりリメイクしたりという作業を行っていた。そうした経験を経て帰国後は同社でリメイクを担当することになったという。その他オリジナル商品も担当することも。さらにはアクセサリーの買い付けや工場に行くために韓国に行くこともあったそう。同社に約5年半在籍した後、独立を考え昨年退社。「もっと仕事がしたかったんです。前の会社でも充実していたけど、もっと働きたかったんですよね」。
念願のブランド立ち上げから会社設立へ
前社を退社する前から独立の準備をしていたという。そして退社した翌日にはharukazeを立ち上げた。そのまま休む間もなく展示会に出展するなど、めまぐるしい勢いでharukazeは成長していく。ブランド立ち上げ後まもなく仕事のパートナーと呼ぶ人が現れ、韓国のアパレル工場に関係の深いその人物が、パラビオンに卸すブランドをやりたいと話を持ちかけてくれたことがきっかけで、新ブランド「luna ann」が誕生。harukazeと並行してやっていくことになる。そして今年の7月には株式会社SAN'Sを設立し、代表取締役となった関さん。「文化を卒業する時くらいから自分のブランドをやりたいと思っていたんです。harukazeはflower(前社)での経験を生かして生まれたブランドという感じですね」。
探りながらもイメージを大切にした服作り
harukazeのコンセプトは、「春の風のようにどこか懐かしく優しい気持ちになれるような服作り」だという。こうしたブランドイメージは昔から思い描いていたものであり、軸がブレることはない。「春夏は振り返ってみるとちょっと子供っぽいというか、カジュアルでした。なので秋冬はもっと大人っぽいイメージで展開していきます」。まだブランド立ち上げから1年ほどということもあり、今でも常に探り探りやっているのだとか。仕事の流れとしては、デザインを考え、サンプルを作り、展示会を開きオーダーを取り、商品として生産した後、納品という流れのようだ。関さん自身が手がけるのは主にデザインで、サンプルや商品製作は工場に発注している。
カタログディレクションなどで活動の幅を広げる
harukazeの他に、パラビオンに卸しているluna annというブランドのデザインを手がけながら、カタログの制作も行っている。他にも以前勤めていた会社のブランド、flowerのカタログディレクションを手がけることも。さらにはOEMのような立場で他ブランドの制作のお手伝いをすることもあるのだそう。しかしこれほど仕事が多いと大変なのでは…?「いろいろ考えることが多いのは大変ですね。出資してもらっている方が何人かいるんですが、お金のやりくりや責任は自分なのでそれも大変ですね。初めは何もわからなかったのでやりながら覚えている感じですね。出来ることならちゃんとした休みが欲しいです。でも仕事がないと不安になったり…。矛盾してますよね(笑)」。
現状に満足することなく常に前進し続ける
そんな激務に追われる関さんだが、仕事のやりがいを聞いてみると、「お客さんから反応をもらえる時が嬉しいですね。商品を買ってくれたお客さんからメールを頂いたりすることもあるんですよ。人に認められたり期待されたりするとやっぱり嬉しいですね」。商品の販売はセレクトショップがメインで、ネット販売もしている。さらに新宿伊勢丹のイセタンガールでも販売が開始。そして来年にはショップをオープンしたいと考えているそう。「おかげさまで順調ですけど、現状にはまったく満足していませんね。今後のビジョンとしてはお店の展開です。自分たちの手で直接お客様に売っていくっていうのをやりたいですね」。どんなことでも楽しむ気持ちが大事だという関さん。その気持ちが、彼や彼をとりまく環境を前進させる源となっているようだ。
※この取材内容は2010年8月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
石川 香代子
ファッションスタイリスト
スタイリストはおしゃれで華やか?
スタイリストというと、最新のファッションを扱う"おしゃれで華やか"な仕事というイメージが強い。だが石川さんによると、決して華やかな部分だけではないようだ。「けっこう地道で、体力勝負の仕事です。映画のスタイリングを担当するときは数ヵ月間現場につきっきりなこともありますし、私の場合は衣装や美術制作も請け負うため、徹夜作業になることもあります」。また、スタイリングも自分のセンスに任せて自由にできるわけではなく、仕事の依頼者の要望を第一に考える必要がある。「候補のコーディネートを写真に撮って依頼者の了承を得る"デジタルチェック"や、出演者のフィッティングを事前に行うこともあります。ですが時間的に余裕のないこともあり、そういったときは、短い打ち合わせで相手の意図を汲み取り、要望に沿ったスタイリングをしなければなりません」
ロンドンでスタイリストの道へ
文化時代はアパレルデザイン科で学び当初はデザイナーを目指していた石川さんだが、ロンドンでの偶然の出会いをきっかけに「ファッションエディター」として歩み出すことになった。「ロンドンコレクションでとあるブランドの縫い子の手伝いをしたとき、ショーのクリエイティブディレクターをしていた『ANDOROGYNY MAGAZINE』という雑誌の編集長から、『君、うちの雑誌の8ページをあげるから好きにやってみない?』と声をかけられたんです」。ちなみに、海外のファッション誌のエディターは「ファッションエディター」と「ライティングエディター」に分かれており、「ファッションエディター」は主にスタイリングを行う。「当初はそんな事情も知りませんでしたし、リース※のやり方も知らず、カメラマンやヘアメイクの知り合いもおらず、とにかく見よう見まねでページを作ったのを覚えています」
※アパレルメーカーやショップからコーディネートのための洋服や小物を借りる、スタイリストの業務のひとつ。
日本と海外との違いに驚く日々
ひょんなことからファッションエディター(スタイリスト)としてのキャリアをスタートさせた石川さんは、大学卒業後もしばらくはロンドンに残り活動していた。ところが家庭の事情で帰国をよぎなくされ、日本に拠点を移すことに。ちなみに日本でスタイリストになる場合、まずはスタイリスト(師匠)のアシスタントにつき、数年後に独立するのが一般的だ。そういう意味で石川さんは特殊なルートをたどったといえ、また日本とイギリスでは仕事のやり方も異なるため、最初はずいぶん苦労したとか。「海外では相手の立場にかかわらず自分の意見をはっきり言うことがよしとされますが、日本では場の空気を読み、まわりの人たちとの和を重んじることがよしとされます。私は師匠もいませんし、それまで正しいとやってきたことがいきなり通用しなくなったので、どうしたらいいのか戸惑うことも多かったです」
日本で働くことの意義とは
でも、「日本に戻ってきたことは正解だったと思っています」と石川さん。「海外生活は楽しかったですが、『いつか日本人として、日本人と、日本からファッションを発信していきたい』という気持ちがあったのも事実です。一度海外に出たことで、"頑固で腕のいい職人が一杯いる"といった日本のいいところに気付くことができたのは大きかったです」。また日本に戻ってきたとき、何よりも心強かったのが文化時代のネットワーク。ファッション業界のさまざまな場で活躍する昔の仲間には、何か困ったことがあると相談にのってもらうなどいろいろ助けられているという。「文化時代は学校のクラスメートはもちろん、学外の人たちとも交流していました。勉強は二の次で、けっこう遊んでいたかもしれませんね(笑)。ですが文化時代に得た友だちは自分にとって宝であり、彼らがいなければ今の私はないと思っています」
スタイリストに求められるもの
スタイリングと一口に言っても、夢の世界を表現するファッションシューティングから、リアリティを追求する映画の衣装まで、仕事によってスタイリストの役割は変わってくる。また現場での変更もあるため、状況に素早く反応する柔軟性が必要だ。それに加えて、「自分の考えや思いを相手に伝える、プレゼン能力も必要です」と石川さん。「センスやスキルはもちろん大切ですが、これからの時代はそれだけでは不足。周りとうまく連携をとるためにも、言葉で表現する力が求められるのではないでしょうか」。想像以上にハードで、"ファッションが好き"というだけではやっていけないスタイリストの仕事。だが最後に、石川さんは目を輝かせながら力強く語ってくれた。「今は、スタイリストとして仕事をすることが楽しくて仕方がありません。才能のあるクリエーターやすばらしいクライアントとひとつのものをつくり上げることは刺激的であり、私の誇りです」
※この取材内容は2010年9月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
村松 啓市
2003年
everlasting sproutデザイナー
有限会社クラウン
イタリアでの経験で学んだこと
類稀な感性でニットの可能性を追求し続けるブランド、everlasting sprout。そのデザイナーとして活動する村松さんは、クラウンという会社の代表取締役となり様々なニットの企画や生産を請け負っている。ニットデザイン科を卒業したと同時に、文化服装学院を通じてイタリアの糸の会社にデザインチームのアシスタントとして参加した経験を持つ村松さん。そこでは主にコレクションブランドにデザインの提供、色や技術の使い方などを提案する業務を行っていた。実際そのプロジェクトに参加した期間は3ヶ月ほどだったそうだが、その3ヶ月間の経験はかなり大きなものになったという。「文化在学中に技術と知識はすごく叩き込まれるので、イタリアで覚えた技術と知識ってほとんどなくて、作り方と見せ方、簡単に言うと表現方法を学んだって感じですかね」。
ブランド立ち上げと同時にBFBへ入学
1年ほどして帰国し、同時にブランドを立ち上げた。さらにBFB(文化ファッションビジネススクール)に入学。ブランドを立ち上げながらなぜまた学生に? と不思議に思うが、「学生をしながらブランドをやろうと思ったのは、会社経営や服作りについてまったく知らない立場だったので、所属していた方がいいと思ったのと、学校の設備を自由に使えるっていうのも魅力だったんですよね。特にニットはミシンだけでは作れないので。在学中に服を作ってブランドとして形を作ろうと思ったんです」と村松さん。そこからコレクションをスタートして現在までに12シーズンを終えている。ブランドがある程度形になったのを機にBFBを1年で修了。そしてeverlasting sproutは本格的にファッション業界に進出していく。
未開拓なニットに可能性を感じて
ニットを専門に扱うブランドということだが、そもそもなぜニットに興味を持ったのだろうか。「文化で服について勉強しているうちに、たまたまおもしろいと思ったのがニットだったんです。可能性を感じたんですよね。古いもの、刺繍やレースなどの手工芸ってほとんどニットの技術で、未開拓だなって思ったんです。ニットには色んな表現方法があるのに、そのおもしろさが世の中にすべてあるわけではないと思ったし、色んなことをやってみたいなと思ったんです」。デザインをする際には、基本的に自身の体験すべてをデザインに落とし込むという。過去の体験や、見たもの、聞いたもの、読んだものなど、村松さんの日常、日々感じているものすべてが服作りのヒントとなっているようだ。
表現方法のひとつとしてのショーの魅力
ブランド立ち上げから6年。毎シーズン、デザインコンセプトを何かしらの形で表現する活動を行ってきた。インスタレーションは常に行っていたが、ライヴで見せるという舞台表現がある意味人の心を揺さぶるとてもよい表現方法だと思い、07-08年のA/Wからショーを行うようになった。「やっぱりショーは楽しいし、お客さんの心を引っ張ってきやすいですよね。結局はライヴで何かやるということは、その人の時間を強制的に持ってくるってことだと思っているので」。ショーを見て涙を流して感動してくれたり、服を喜んで買ったくれた時に仕事のやりがいを感じるという。さらに「僕も作り手で職人気質なところがあるので、自分の作りたいものやイメージしたものが形になった時っていうのはすごく気持ちがいいですね」。
ニットカルチャーを自分らしい表現で伝えていきたい
青山に構えるショップ「青山Knitting Works」は半年ほど前にオープン。コンセプトは、もの作りの方とお客さんとの繋がりを持たせてあげられるようなお店。そしてもの作りの背景がわかるようなワークショップを月に1~2度、作家さんに開催してもらっている。「もの作りやデザインに対しての感覚が近くにあった方が感じ方が違うと思うんです。それにやっぱりお客さんの顔が見れるっていうのが嬉しいですね。それによってデザイナーとしても成長できると思いますし」。今後も妥協せずに今まで通りしっかりしたものの作り方と伝え方をしていきたいという村松さん。「ニットカルチャーをもっと自分らしい形で表現できていけたらいいなと思っています」。
【参照元】文化服装学院HP Next
相澤 樹
2003年
スタイリスト
思わずとっておきたくなるようなスタイリングを心掛けて
ファッション雑誌、書籍、広告、音楽(CD・PV)から、タレントやファッションショーに至るまで、様々な媒体からスタイリングのオファーがくる、人気スタイリストの相澤さん。元気な笑顔と"ミキティ"の愛称で、仕事仲間からは絶大な支持を得ている。スタイリングで心掛けていることを聞くと「色使いは特徴的だと思います。雑誌ならば、私のページを見て元気になったり、切り抜いて貼っておきたくなるようなパンチのあるページを作りたい。ちょっと笑ってもらえるような世界観も好きです」。また、意外にもスタイリングは小物から入ることが多いそう。リサーチもまずは小物というのもおもしろい。今回の取材場所となった「パニックルーム」と呼んでいる相澤さんのアトリエには、膨大な数の小物のコレクション&服があふれていた。
幼い頃から、ファッションへの道を決意!
相澤さんがファッションを志したのは、小学生の頃。「ヴィヴィアン・ウエストウッドのショーをテレビで見て、デザイナーになろう!と思いました。中学卒業後には文化へ入学したかったのですが、それはできないので(笑)、まずは地元の高校へ。高校時代は、バンドの衣装を独学で作ったり、ファッションショーを開催したりしました」。そのとき、ショーに足りないものを集めていると、自然にスタイリストの方が、自分に向いていると気が付いたそう。そこで迷うことなく、文化のスタイリスト科へ入学。文化時代はショーのフィッターを手伝う課外授業で担当者に仕事ぶりを気に入られ、ショースタイリストのアルバイトをスタート。卒業時には、ずっと憧れていたスタイリスト・飯嶋久美子さんに履歴書を送るが結果はNG。しかし、その個性とショースタイリストの経験を認められ、結果は取り消されて見事アシスタントにつくことになる。
若くして独立した不安をパワーに変えて
アシスタント時代は毎日が楽しかったという。「師匠のおかげで日々、いろいろなプロの人に会える。人が大好きなので、そこから学ぶことは大きかったですね」。アシスタントについて、2年半後には独立することに。「そのとき22歳で、独立するにはまだ若かったので不安だらけでした。でも偶然の出会いや人とのつながりで少しずつ仕事がくるようになりました」。そのうち音楽関係のスタイリング、ショー、雑誌へと活動の幅が広がっていった。「師匠から言われた言葉、"どんな仕事でも、これが最後でもいいという気持ちで仕事をしなさい"ということを一生のテーマとして、日々がんばっています」。
スタイリングは、相手の要求に合わせて柔軟に対応
様々なジャンルのスタイリストとして活躍中だが、媒体によって気を使う部分は異なるそう。「雑誌であればそのテーマの世界観を重視します。タレントさんのスタイリングであれば、人それぞれにある個性を、どう新しく提案をできるかを考えます。またショーのスタイリングであれば、デザイナーがどういうテーマでどういうものを作りたいかじっくり話し合います」。前回登場した村松さんのブランド"エヴァーラスティングスプラウト"のショーでは、スタイリングに足りないアイテムをリクエストして作ってもらうこともあるそう。そこからコラボ商品として誕生したアイテムが、現在販売中というからこちらも見逃せない。
ジャンルの壁を越えて、活動の幅を広げていく試み
独立してちょうど5年目の節目となる今年、12月上旬には本が発売されることとなる。「"Rebon Bon"(祥伝社刊)というタイトルで、リボンを使ったスタイリングを見せると共に、作り方解説もついた本です。本の構成もすべて考えました」。また、"Tu es mon TRESOR(トレゾア)"というブランドも立ち上げ、初の展示会も開催する。スタイリストの枠を超えて、ファッションをとことん楽しみ、次々と新しいことにチャレンジしていく相澤さんに学生へのメッセージを伺った。「自分の足で歩いて、自分で本物を見るようにしたら、きっと世界は広がっていくと思います。東京にいるなら美術館でもなんでも、いいものを見る機会はいっぱいあります。思っているだけでなく、行動するのが大事ですね」。
【参照元】文化服装学院HP Next
橘 房図
2001年
ヘア&メイクアップアーティスト
自分の中に吸収することが楽しくて
ファッションシューティングやコレクションでは、テーマに合わせて独創的なヘッドピースを自ら制作するほか、最近では、初めてアーティストのツアーのヘア&メイクを担当することになり、全国を飛び回っている橘さん。「今まで経験したことのないものを学べる気がしました。自分の中に得るものがあるのなら、きっとこの仕事も楽しいと思って」。昔から学ぶことが好きで、学校も大好きだったという。今でもその性格は変わっておらず、日々何事も吸収することが楽しくて仕方ないそうだ。
進行方向を変更して、気付いたヘア&メイクの楽しさ
高校時代から美容師にはなりたかったが、服作りにも興味があった。そんな時に文化のパンフレットでスタイリスト科を見て、服作りも、メイクも、写真を撮る授業まであるこの科に応募を決める。3年目のファッション流通専攻科では、外部の講師によるコレクションメイクや特殊メイクの授業など、基本以外の広範囲のことを教えてもらう機会がぐっと増え、その奥深さと楽しさから本気でヘア&メイクの道を目指すようになる。卒業後は資生堂美容技術専門学校に通い、美容師免許を取得。しかし、ヘア&メイクになりたいけどサロン経験もなく、どうしたらなれるか試行錯誤する日々が続く。ある時ダメもとでヘア&メイクアップアーティスト・冨沢ノボルさんの事務所に電話をし、ブック(※)を送り、そして何とか見学のチャンスを与えてもらえた。そしてその後アシスタントに付けることに。「私のような経歴は稀だと思います。本当に周りの人たちに引っ張ってもらった感じです」と自身の経歴を振り返る。
※自分の作品などをポートフォリオにして見せるもの
ヘアの作り込みは、まるで服作りのよう
ヘアスタイルを独自で作り込む仕事が多い橘さん。「ヘアスタイルの作り込みの企画では、服を作るときの素材みたいな感覚で作っています。髪の毛一本一本のニュアンスや質感などのディティールを重視する方もいると思うのですが、私の場合は服を見て、さらに全体のバランスを確認しながら作り込みます」。しかし、そうは言いながらも橘さん自身は、ヘアとメイクだとメイクの方が好きだというのがまた興味深い。
自分の気持ちが伝わってしまうメイクの難しさ
“色”が大好きで綺麗な色を見つけるとつい買ってしまう。メイク道具用のトランクの中にはカラフルなメイク道具がいっぱい詰まっていた。実際に使う機会はそんなにないが、現場で広げておくことで、自分も周りのスタッフも気持ちがあがる材料になるそうだ。また、感覚が敏感な人が多い世界で、その人が自信を持ってカメラの前に立ったり、ステージに立ったり出来るように、自分自身も最良の状態で仕事に臨んでいるそう。「メイクは直接肌に触るものなので、自分の気持ちが伝わると思います。『よし、決まった』とか『イマイチだな』という気持ちも絶対相手に伝わるはずです」。綺麗にしてあげて喜んでもらえた時、この仕事のやり甲斐を感じるという橘さん。「実はマッサージの教室にも通おうかと考えています」。モデルやアーティストを、一番いい状態にもっていってあげたいという想いは強い。
ヘア&メイクの枠を越えて表現すること
30歳の誕生日に友達がホームページをプレゼントしてくれた。そこで日々、感じたことや思い描いたことなどをブログに綴っているうちに、文章を書く楽しさを見出すことができたという。「今まで自分の考えや意見を口にすることが苦手だったのに、ブログを始めて、“文章”という感情表現の仕方があると気付きました。これからも文章を書くということは続けて行きたいです」。近い将来展示会をしたいという橘さん。今、頭の中にはやりたいこと、表現したいことがぎっしり詰まっている。「きちんと時期が来たら一気に出したいと思っています」。その時は自分にしか出来ない世界を見せたいと新たな夢を膨らませている。
※この取材内容は2010年11月時点のものです。
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瀧澤 日以
2001年
PHABLICxKAZUIデザイナー
(有)ハンズワークス
在学中から衣装製作に携わる
独創的なアートセンスで独自の世界観を提示するブランドPHABLIC x KAZUIのデザイナーである瀧澤さん。洋服のデザインだけでなく帽子やアクセサリー、さらにグラフィックデザインまでもこなすクリエイターだ。瀧澤さんはデザイナーとして働く前から衣装製作の仕事をしていた経緯がある。文化在学中の3年次から映画の衣装関係者らと同居し、そこで自分のアトリエを持ち製作をしていた。当時はスタイリストやアーティストの衣装製作を請け負っていたそう。アパレルデザイン科を卒業後、工科専攻科に進学したが卒業制作期間にあたる後半には卒業を待たずに仕事の道へ。「その時期には仕事に入りたくて、仕事を引き継ぎながら旅に出たりして色んなものを見ましたね。色んなところに行って色んな人たちに出会いました」。この経験は瀧澤さんにとってとても大切なものとなったようだ。
自分のやりたいことを見つけてその道をいく
文化への入学を決めたのは、手に職をつけたかったからだという。服作りに興味があったというよりは、デザインに興味があったそう。「デザインっていったら洋服じゃないかっていうノリで入ったんですよ。初めは何も出来なくて残念な学生だったと思いますよ。でも途中で色々と刺激をもらって後半は頑張りましたね。初めて好きなものが見つかった気がしました」。工科専攻科をやめて半年間の旅から戻ってからは、衣装製作のアシスタントや、自分で作った服をセレクトショップで売ったりするように。就職など仕事に対する不安や焦りはなかったのかと聞くと、「在学中に色んなアルバイトをしていたのでパイプが太くて、仕事に関する不安はあまりなかったですね。自分で決めて自分のやりたい事のためにお金を貯めてっていう生活をしてましたね」。
会社へ所属しアトリエを立ち上げ本格的に活動
はじめは個人で活動をしていて、作った服がセレクトショップで販売されるようになっていた。「だけどセレクトショップ主導でやりたいと言われたり、ビジネスの仕方も知らなかったし、衣装製作の仕事も忙しかったのもあって、デザイナーの仕事を一旦ストップしたんです」。やがて07年から現在の会社の所属になるが、もともと同社でフリーランスのスタイリストとして働いていた。グラフィックデザインの会社ということもあり、ここでグラフィックデザインを教わりながら習得していく。現在ではホームページのデザインを自ら制作するまでに。「もともと衣装をアシストや下請けでやっていた時はクライアントが大きくて、テレビや映画、舞台、CMとかの仕事をやっていました。でも今はもっと若手の方だったりするんですが、規模は違っていてもおもしろいですね」。
腐敗していくモノではなく、繋がっていく有機的なモノ作りを
ブランド名にもなっている「PHABLIC」とは、一般的にマスやパブリックという大枠で括られる人や社会を、1本1本の糸のように細分化して、新しいコミュニケーションを生み出すためにもう一度織り直した新しい「布=ファブリック」を作るという思いを込めた造語で、これが自身の中のテーマでありブランドコンセプトとなっている。そしてそれを基にして作り出す全てのモノ・コトが繋がっていけばというのが瀧澤さんの思いだ。しかしまだ模索しているところもたくさんあるという。「有機的な物の作り方、腐ってなくなってしまう物じゃなくて、発酵してより良くなるものっていう考え方。その次に繋がっていくコミュニケーションになるような洋服の在り方、商売の在り方っていうのを作っていきたいと思っています」。
自分たちの作った物をもっと多くの人に伝えたい
仕事のやりがいを聞いてみると、「きちんと目の届くところに物が辿り着いてくれるのが嬉しいですね。そしてそれを感じられるのは作った物を渡した時。それを感じ続けられるような物作りの仕方をしたいし、驚かせてあげたいし楽しませてあげたいっていうのがあります。着て楽しい、買って楽しい、ここに来て楽しいっていう状況をもっと作りたいですね」。そして、PHABLICxKAZUIとしての活動をもっとたくさんの人に知ってもらいたいと、最近やっと思うようになったそう。「自分の周りにいる人たちが見えるようになって、非常に良い仲間が集まってくれているので、こういう人たちが真剣に作ったらきっと良い物が出来ると信じているので、それをもっと色んな人たちに見てもらいたい。今はアトリエショップなんですけど、いつかは自分たちのお店を持つっていうことを目標にやっていきたいですね」。
※この取材内容は2010年12月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
横田 太樹
1999年
スタイリスト&デザイナー
MASAKA株式会社 代表
スタイリストとデザイナーを両立
横田さんは、有名ミュージシャンやタレント、若手アーティストなどのスタイリングを手掛けるスタイリスト。独立して6年が経つが、その間にファッションブランドを立ち上げるなど、スタイリストという枠を超えて幅広く活動を行っている。現在、JACKSON MATISSEを運営するメンバーは横田さんを入れて3名。全員が横田さんと同じく、ブランド運営とほかの仕事を掛け持ちしているという。「違ったジャンルで働くスタッフがそれぞれのノウハウを持ち寄り、新しいアイデアが生まれるところが面白いです。また、ひとつの業務に掛かりきりにならないことで、いい意味でビジネスライクになりすぎず、遊びの部分を残しながら仕事が出来ていると思います」
興味のあることはとりあえずやってみる
スタイリストは撮影日に向けて仕事をするため、一定期間のスケジュールを動かすことができない。そのため、まずはスタイリストの仕事優先でスケジュールを埋めていき、その合間にブランドの仕事を入れていくという。「逆にブランドの展示会が開かれる時期は、スタイリストの仕事を入れないようにしています。スケジュール調整は、ちょうどパズルを埋めていくような感じです」。ただし時間のやりくりは、「大変なこともありますが、決して苦ではありません」と横田さん。「僕は、興味を持ったことは何でもやってみたいタイプ。逆にやりたいことをひとつに絞ることができないので、いくつかのやりたいことがうまくリンクするための方法を常に探している感じです」
ふたつの仕事が好影響し合うとき
ファッションブランドJACKSON MATISSEは、「とりあえずTシャツでも作ってみようか」という気軽な気持ちからスタートさせた。最初は手探りの部分もあったが、スタイリストとして世の中のトレンドを見ていることが、デザインのアイデアを考えるときに大いに役立ったという。また、スタイリストの仕事が思わぬところで助けとなったことも。「商品のリースに行くとき、仲のいいプレス担当者にブランドの新商品を見てもらい、意見が聞けたりするのはすごく有難いです。実際自分の働きかけで、大手アパレル企業のショップに商品を置いてもらえるようになったこともあります。おそらく飛び込みで営業に行っても話を聞いてもらえないでしょうし、もともとの信頼関係があったからこそ話がまとまったのかなと思います」
ワクワクする"新しい"ことを求めて
多忙な毎日を送るなか、「新しいことをやりたい」という好奇心が横田さんの原動力。2010年には、帽子ブランドMASACA HATを立ち上げた。ストリートに根ざしていて大衆的、でもどこか格好よさが漂うテーストの帽子を展開している。横田さんにブランド名の由来を聞いてみると、「自分に必要なのは驚きだと思い、"MASAKA"という会社名にしました」という答えが返ってきた。「真面目に言うのもなんですが、僕は本当に普通の人間なんです(笑)。以前はアーティスト的な物作りに憧れたこともありますが、自分がやってもどこか背伸びになってしまう。僕に奇抜な物は作れないということも分かりました。自分は何が好きで、何が出来るかということを突き詰め、等身大の自分を知ることの大切さを今はしみじみ感じています」
等身大の自分で勝負していきたい
高校時代はフィフティーズに憧れ、文化入学後はスケボーファッションなどのストリート系にはまったり、ときにはモードに入れ込んだりと、横田さんはこれまでにさまざまなファッションを通ってきた。とにかく洋服が大好で、進学時にスタイリスト科を選んだのも当然の成り行きだった。「いろいろなファッションを経験してきたお陰で、洋服の奥深さがなんとなくわかったような気がしますし、スタイリングの幅にもつながっていると思います」。心掛けているのはバランス感覚。やりすぎず、かといっておとなしすぎないところをいつも意識しているという。「自分のスタイルを押し付けるのではなく、コミュニケーションしながら相手がやりたいものを汲み取っていきたい。スタイリングにしてもデザインワークにしても、自分には等身大な感じが一番しっくりくるみたいです」
※この取材内容は2010年12月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
松村 力弥
2002年
企画部・国際部
株式会社 吉田
レディースの服作りから、バッグの世界へ
1935年の創業以来、多くのファンを増やし続けている株式会社 吉田。"ポーター"や"ラゲッジ レーベル"のバッグや小物類は国内外で絶大な人気を博している。その商品のデザインを手掛ける松村さんは、企画部・国際部に属し、幅広い仕事を手掛けている。「主な仕事の内容は、年2回の展示会へ向けての商品企画です。ほかにも、海外のショップと別注アイテムを作る場合のやりとりや、通訳を必要とする仕事のときなどにも関わります」。ロンドンでの留学時に、企画部で英語を話せる人材を募集していた同社に応募し、見事採用が決まった。入社後、留学経験は大いに役立ったという。しかし、文化時代からロンドンの留学時に学んだのはレディースの服作り。バッグを専門的に学んだこともなく、入社当時はかなり大変だったそうだ。
初めての展示会で学んだこと
入社し、研修後すぐに11月の展示会に向けた商品を作ることになった松村さん。「右も左もわからない状態で、自分の作りたい商品を企画し、プレゼンすることになって(笑)。上司から部材の仕入先から、生地はここに電話してとか、職人さんはここにいるから…まで、体で覚えていくような感じでした」。今までのすべてをがらりと変えられるようなそんな感覚だったという。「ずっと服を作ってきたので、どうしても服がベースでバッグを作っていたような気がします。コンセプト重視にもなりがちでした。それが、初めての展示会に自分の商品を出させてもらったことで、バッグに対する考え方、縫い方、使う素材の違いも感じました」。先輩が作っているものを見たり、上司から考え方の指針をもらったりしていくうちに、少しずつ松村さんの中で意識改革につながっていったようだ。
やりがいを感じ、常にアンテナを張って
展示会ごとに様々なシリーズの新作を発表するため、企画部の11人はそれぞれ作りたいものを毎回プレゼンするという。それらを調整し、発展させ、バランスを取りながら新作は誕生していくそうだ。「カジュアルラインもビジネスラインも分けないで、デザインを手掛けています。そうすることで、みんなが常にアンテナを張っているような状態が保たれているのだと思います」。展示会の商品のみならず、別注企画も多いという。「アパレルブランドを始め、多業種に渡って関わることが多く、いろいろな考え方が見える位置にいるので、とても勉強になるし、やりがいがあると思います」。
華やかさだけではない、デザインの仕事
企画部の仕事は、一見華やかに見えるデザイン作業が軸かと思いきや、その内容は多岐に渡る。上記でも触れたように異業種の企業やブランドとの別注企画は一年を通して多数進行しており、コラボレーション商品などに関しては、商品企画や生産手配だけでなく検品や発送も自分たちで行なっている。「外部の方との打合せも多いので、コミュニケーション能力も大事です。コラボレーション商品の場合は、打ち合わせをしているその場で先方の要望やイメージに最も合った作り方やアイディア、素材などを提案できなくてはいけません」。デザインするだけでなく、様々な角度から商品を作り上げていく松村さん。今は遠い未来のことよりも、目の前のことを確実に発展させていきたいそうだ。「社内での内見会のときにはすでに次に作りたい商品が見えてきています。それに対して、自分はどういうものが作れるかという視点の方が今は強いですね」。
学生時代に多くのものを吸収して
文化の学内で一番よかったところは図書館だったという松村さん。「社会に出たら、好きな資料をあれだけ見られる環境はないので、ぜひ活用してほしい。様々な国の服飾文献や歴史書まで幅広く揃っているので、インスピレーションの基になります」。また学生時代の松村さんは、服が好きでいろいろな店へ行ったという。「古着屋から大手百貨店まで、とにかくいろいろなものを見てと伝えたい。今はネットで画像検索もできますが、これがどういう質感で芯がどういうふうに入っているかなどを知るには、見て触ることが大事。ぜひ自分の足で見つけてください」。松村さん自身も、まだまだ奥深いバッグの世界を学び続け、新たな提案へと進んでいきたいそうだ。
※この取材内容は2011年1月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
石井 直人
2002年
直し屋ベルベルジン
(株)ベルベルジン
ジーンズ愛好家たちの救世主
ジーンズに対する思いは人それぞれだ。履きつぶしてボロボロになったものを処分してしまう人もいれば、何とかしてまた履きたいという思いで修理に駆け込む人もいる。「直し屋ベルベルジン」としてジーンズの修理を手掛ける石井さんは、ジーンズを愛する人たちにとって、いわば駆け込み寺のような存在と言えるだろう。原宿にある古着屋「ベルベルジン」は、その世界では知らない人はいないと言っても過言ではない有名店。もともとそこで販売スタッフとして勤務していた石井さんが、4年ほど前からお客さんのジーンズの修理を行うようになったのがきっかけとなり、2年前に「直し屋ベルベルジン」として修理専門店をオープン。その確かな技術と丁寧な仕事ぶりで、今では修理の順番を待つジーンズが何本も待機している。
趣味に夢中になりながら過ごした学生時代
お兄さんの影響もあり、中学の頃からジーンズに対する憧れを持っていたという石井さん。そしてファッション誌を読んでいるうちに自然と詳しくなっていったようだ。文化では服装科に在籍していたが、「物を作るのが好きだったんですが、服装科に2年間行ってみて、自分は服を作ることには向いていないと思ったんです。もう1年あったらやめていたと思いますね(笑)」。しかし学生時代はスノーボードやバイクなど、夢中になれるものがたくさんあったから楽しかったという。「どちらかというと不真面目な学生だったと思うし、服が一番ではなかったけど、文化での経験は勉強になったし、文化で仲良くなった友達とは今でも毎年キャンプに行っているんですよ」。
試行錯誤しながらもやりがいを感じるように
ベルベルジンには勤務する以前から何度か行っていたという。「前に働いていたリーバイスストアでジーパンを見ながら、レプリカはあるんだけど本物を見たいなと思ったんですよね。だったら一番メジャーなベルベルジンに行こうと思ってやめたんです」。ちょうどそのタイミングでバイトの募集があり応募したのが入社のきっかけだ。販売を経験しながら修理をするようになったが、はじめは本意ではなかったよう。「別の店で裾上げ用の小さなミシンで始めたんですけど、当時はやらされてる感がありました。それから自分なりに色々考え出して試行錯誤しながら4年が経って、今ではこの仕事が嫌いじゃないし、好きなものだからおもしろみを感じるし続けているんだと思います」。
ジーンズに愛を持って接する職人の姿勢
現在の直し屋を始めて2年ほどが経つが、この2年で修理の方法も変わってきたようだ。「アメリカから入ってきたものでも上手かったり下手だったり様々です。日本で直されたものでもかなりの時間がかかっていたり、高かったり。そういったほかで直されたものを見たりしながら自分なりに研究していくうちに、今では安定したものを出せるようになりました」。石井さんにしてみたら、ジーンズを直すよりも普通の服を直す方が難しいと感じるようだ。自身が時間と手間をかけて直すジーンズには愛着がわいてくるという。「かなりひどいものを持ってくるお客さんもいるけど、そういう手のかかるやつほど可愛くなってくるんですよ。儲からなくなってくるけど、それでもちゃんとやってあげたいなと思いますね」。
生み出すのではなく残してあげることが使命
修理するジーンズは、1000円くらいのものから3万円くらいのものまで様々だ。中には繰り返し修理に出しに来る人がいるのだそう。「昔自分がやったものが再修理に来ることがあるんですけど、自分が直したものは見てわかりますね。そういうものは安くやり直してあげたりもします。でもまた直しに来てくれるってことは嬉しいことですよね」。ジーンズの修理を極めつつある石井さんだが、レザークラフトにも興味があり、独学で学んで作った物の数々は趣味の域を超えた出来栄えだ。いつかは自身で制作したレザーアイテムを販売したいと話す。「これでも絞り込んできたんですが、もっと仕事を特化させたいですね。究極を言ったらパーツを作るところから始めたり。ただあくまでもジーパンを作るのではなく、残してあげることが自分の仕事だと思っています」。
※この取材内容は2011年2月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
鈴木 雄太
2003年
企画・生産
オーガニックデザイン(株)
ショップの移転のタイミングで転職
駒沢大学と三軒茶屋のちょうど間くらいの場所にある、ショップ「ワープ&ウーフ」。ここではオリジナルブランド「Pioneer Tailoring」として、1930~1940年代のバイカーやワークウェアをデザインに落とし込んだウェアを販売している。そのほかにもオリジナルのシルバーアクセサリーや、帽子、ウォレットなどの小物類も展開。ここで企画・生産として働く鈴木さんは、昨年10月に転職してきたばかりで、在籍して現在5か月ほどだ。もともとこのショップは代官山にあり、鈴木さんはお客さんとしてよく行っていたんだそう。そしてインテリアを本格的に展開するにあたって現在の場所に移転することになり、そのタイミングで転職してきたという。
自分の好きなものを手掛けることにやりがいを感じて
前職ではパタンナーとして7年ほど勤務していた鈴木さん。そこで働きながらも転職は考えていたという。「ただ、長く勤めていたこともあって慣れもあったし楽だったので、なかなか転職するタイミングがなかったんです。でもこのままずっとそこにいてもダメだなと思ったんですよね」。鈴木さん自身が30歳を迎える年齢的な節目というのも、転職を決意するきっかけのひとつになったようだ。以前もパタンナーとしてパターンを引くこと自体は楽しかったようだが、それほどやりがいを感じてはいなかったそう。しかし現在は、「自分の好きなものだし、パタンナーとしての先輩(オーナー)もいるし、転職してよかったと思ってます」。
新たに"アイビー"ラインを展開
日々の仕事では、オリジナル商品のパターンをひきながら生産管理も行っている。そして同じ立地でショップも兼用しているので接客対応も務める。ブランドとしてこれまではワーク系のラインを展開してきたが、新たにアイビー系のラインを立ち上げることに。「僕はワーク系も好きなんですけど、身長が低いので太いパンツなんかは似合わないんですよね。それでオーナーと二人で提案し合って、アイビーのラインを展開していくことにしたんです」。1960年代を代表し世界的ブームともなったアイビーファッションを、現代に落とし込み改めて提示することは、ごく自然な流れでもあったようだ。「意識してアイビーが好きだったというわけではないんですが、普段から好きでよく着ていたB.Dシャツなどが、もとを辿ればアイビーから来ているものだったんですよね」。
自身が携わった商品が上がってくる喜び
現在は新ラインの商品化に向け、BD.シャツやアイビーパンツ、ポロシャツなどを制作中。パターン制作以外の業務では、商品に対しての付属や素材を決めていく生産管理がある。商品の絵型を描いたり、生産のための工場とのやりとりなども担っている。新しく立ち上げるラインに向けて、色々と提案していかなければならないことが大変なようだが、「前よりも自分で着たいと思える服のパターンを引けてるというのもあるし、自分が携わった商品が上がってくるのも嬉しいですね」。ちなみに扱っている服はメンズが中心となっているが、レディース用の小さめのサイズ展開もしていて、シルエットも女性向けになっているそう。
新たな夢を見据えて経験を積んでいきたい
文化服装学院在学時は、とにかく服を作ってばかりいたという。デザイナーになりたいというよりも、服を作ることが好きだったようだ。「文化では縫製の仕方とかが身に付きました。でも社会人になってみると、市場のほとんどがカジュアルの服じゃないですか。なのでパターン的なところで言うと、実際に仕事をしながら新たに習得していったこともありますね」。いまの目標としては、既存の30~40年代のワーク系ラインもやりつつ、新企画のアイビーをまずは成功させたいという。「いずれは独立してブランドを立ち上げたいとも思っています。でもまだまだ未熟なので、まずはここで経験を積んでいきたいですね」。
※この取材内容は2011年3月時点のものです。
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山岡 かおり
2005年
アクセサリーデザイナー
書物から想像する世界が、アクセサリーへと形を変えて
毎回幻想的なストーリーに沿って作品作りをしている「ジュエ・アヴェック・モア?」。そのデザイナーである山岡さんは本を読むことが大好きで、小説や絵本などからいろいろな情景を想像し、そこからデザインを生み出している。中でも最も山岡さんに影響を与えたのは、女流写真家のサラ・ムーン。彼女が写し出す世界観は、山岡さんが作品に落とし込む世界と「幻想的」という点でどこか似ている。制作するアクセサリーのメイン素材である樹脂は、時間の経過とともに色が飴色へと変化していくのが特徴。そのアンティークの雰囲気が漂うアクセサリーは、まるで遥か遠い時空を越えてきたかのような不思議な感覚を与えてくれる。
気付いたらアクセサリーという未知の世界に導かれていた
メンズデザインコースの学生だった山岡さんが、全く手掛けたことのないアクセサリーの世界に足を踏み入れることになったきっかけは、アパレルデザイン科の中でも選抜された学生だけが出展する機会を与えられる「パンゲアソラリウム展」に参加したところにある。アパレルデザイン科の友人と親交が深かった山岡さんは、頻繁にその教室に出入りしていた。ある日、その友人がこの展示会に参加しないかと声をかけてくれたそう。10人くらいで出展することが決まり、服やアクセサリーを作る人から、音楽や映像を手掛ける人まで、それぞれが得意なことを発表する"クリエーター集団"になったそう。そしてそのグループの名前が「ジュエ・アヴェック・モア?」だった。そのとき雑誌「装苑」の取材を受け、その後の評判も良く、原宿のショップへの卸しも始まった頃、初めて自分達の中に「続ける」という意識が生まれたという。
外の世界を見て吸収したこと
卒業後、グループのみんなはそれぞれの道へ進んだが、その内の3人でブランドを継続する事になった。しかし以前から卒業したら海外へ行こうと思っていた山岡さんは、多くのものを吸収するためロンドンへ留学する。語学を習得しながら、様々なところを旅行してはアンティークレースやボタン、パーツなどを買い付け、日本で制作活動しているメンバーへ届けたそう。1年の海外生活を経て、帰国後はさらに視野を広げるため、アクセサリーメーカーに就職。「そこでは社会人としての基本的な常識をたくさん学びました」平日は社会人として働きながら、週末の土曜日は「ジュエ・アヴェック・モア?」のメンバーとして活動をしていた。そんな日々が約1年半続いたころ、会社を辞め、正式にブランドに戻る日が来た。
作品一つ一つに込めた想い
そんな20代も後半に差し掛かった頃、以前からのメンバーには他にやりたいことが見つかり、それぞれの道へ進むことに。いつか独立してやってみたいと思っていた山岡さんはこれをきっかけに同ブランドを継続することを決め、2010年秋冬から1人での活動が始まり今に至る。「人の心にぽっと光が差し込むようなものを作りたい」それを"記憶に残るもの作り"と山岡さんは呼んでいる。1点1点丁寧に手作りし、量産では決して生み出せない"1点もの"にこだわり続けたいと話してくれた。制作途中は「かわいい、かわいい」と言いながら作っているそう。「口ではそう言いながら制作していますが、頭の中はもう次のシーズンに何を作ろうかという事でいっぱいになっています。」
ブランドの成長を見据えて
「このまま1人でどこまでいけるのか試したい気持ちはあります」約2年間1人での活動を楽しんでいる反面、ブランドとしては1人の色より違った色が加わることも必要だと、自身のブランドを冷静な目で客観的に捉え、メンバーを増やす事も視野に入れている。「これから、もっとたくさんの人に知ってもらえるよう、発表の場を増やさないといけないと思っています」現在「ジュエ・アヴェック・モア?」を取扱うショップは全国にあるが、しかしまだ知らない人もたくさんいる。「今後は関東にとどまることなく活動範囲を広げ、展示会を開きたい」と意欲を語ってくれた。
※この取材内容は2011年4月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
西村 真理子
2003年
デザイナー
株式会社アミナコレクション
留学で身に着けた語学力と経験
個性的で不思議なものが所狭しと並び、異国の雰囲気が漂うエスニックショップ「チャイハネ」で、オリジナル商品のデザインを手掛けている西村さん。毎回新作を作る際には海外へ出向き、生地作りから携わっている。海外への出張ということで語学力が必須となるわけだが、西村さんはロンドンへの留学経験があり、今では仕事上での英会話を難なくこなしている。以前から英語を話せるようになりたかったということで、文化を卒業後に販売を1年半ほど経験し、その後ロンドンへ留学。語学学校に通い、滞在2年目くらいからはロンドンのショップで働くように。さらにそこで自身の作った服を売らせてもらったり、ファッションショーのサンプル縫製をさせてもらった経験も。「日本よりも実力を見て働かせてくれる国で、そういうのが住みやすかったですね」
語学力を活かせる仕事に魅力を感じて
ロンドンでフリーで活動していくこともおもしろいと感じたが、企業で働いてみようと思い帰国。そして現在勤めているアミナコレクションに入社。この会社を選んだ決め手は、「選考基準が日常会話の英語が話せることだったので、語学力を活かせると思ったんです」。海外の取引先と繋がっているということも、働きたいと思った理由だという。今ではシーズンごとにインドやタイ、インドネシアなどの現地へ足を運び、デザインについてのやりとりをしている。西村さんは横浜出身なので、小さい頃からチャイハネにはよく来ていたそう。「それにもともとアフリカンなテイストが好きだったのもあったし、刺繍も好きなので、この会社でやってみようと思いました」
ファブリックから徹底的にデザインに携わる
仕事内容としては、前シーズンの反省から始まり、今季の案をデザイナーたちで出し合う。柄から作ることもあるそうで、各国の民族衣装の柄をアレンジしたりすることも。そしてファブリックの指示書を作成し、服のパターンも作っている。生地とスタイルの指示書の作成が終わったら、海外へ出張。インドなど現地の工場へ行って視察。送った指示書をもとに仕上がり具合を見て、修正の指示をかけて帰国。その後送られてきたサンプルを検品、試着して補正をかけ、仕上がったものが展示会へ。その後最終指示書を作成し、出来上がってきた商品を検品。その商品の売り上げの統計を取り、来シーズンの商品に繋がっていくというのが一連の流れだ。「エスニックなので夏をメインに展開していて、年に3回展示会があるんです。なので普通のアパレル企業よりは仕込む量は多いかもしれませんね」
ほかにはないオリジナルデザインにこだわって
エスニックショップで展開されているものの多くは、海外で買い付けてきたものをそのまま売っていることが多いようだが、チャイハネはあくまでもオリジナルだ。しかもほとんどがハンドワークによるもので、機械生産ではない魅力が詰まっている。「中国の工場で大量生産で作っているわけではなく、本当に手作りなので、天候によって風合いや仕上がりが変わったりするのも魅力なんです。それを出張先で実際に見られるのもいいですね」。時には現地で一緒に体験させてもらえることもあるのだとか。流行りを追いかけることもなく、こだわりのデザインアイテムをリーズナブルな価格で提供しているチャイハネ。「不思議なものに出会える場所。ほかにはない物が見つかるはずです」
ハンドワークの魅力と難しさを実感
海外の職人たちによるハンドワークが何よりも魅力ではあるが、逆にその良さが買い手に伝わらないこともあるという。手刺繍や染め物などが色落ちなどの問題で返品されてしまうことがあるのだそう。それが手作りならではの特性であっても、購入される側には理解されないこともあるのが難しい問題だ。「それがハンドワークの良いところでもあり、悪いところでもあるのかなって思いますね」。そして現地の人との英語でのコミュニケーションも時には通じにくくもどかしさを感じることもあるという。いまの会社に勤めて3年が経った西村さんだが、今後の展望を聞くと、「やっぱり今後も海外に関われる仕事をしたいですね。今の経験を活かしつつ、また新たなことに挑戦してみたいと思っています」
※この取材内容は2011年4月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
安生 佳晋
2003年
デザイナー
SEMBL
ボランティアでデザインの仕事をスタート
デザイナーとして5年目を迎えた安生さんが手掛けるブランド、センブル。ディレクターとの2人によってセンブルの服たちは生み出されている。文化を卒業した後、数か月間ヨーロッパへ放浪の旅に出た安生さん。そして帰国後にビームスのスーツを中心としたセクションにて販売の経験を積みながら、当時は別の人がデザイナーを務めていたセンブルのデザインを無償で手伝うようになったという。「もともとセンブルが好きで、デザイナーになりたいということをアピールしていました。ボランティア期間は1年くらいありましたね。お金よりも自分のデザインが採用されること自体が嬉しかったんです」。やがて2006年から正式にデザイナーとしての任務を引き継ぐ形となる。
街ゆく人の着こなしにデザインのヒントが
デザイナーに就任してから4年が過ぎ、それなりに大変なこともあるようだが、楽しさや充実感の方が多く感じられるという。1シーズンの大まかな流れとしては、展示会の3ヶ月ほど前にデザイン画をアップし、そこからパタンナーと打ち合わせ、パターンが上がってきたらそのサンプル作成を工場に依頼。そこで上がったものから最終スタイリングを組み、ルックブックを作成し、それをツールとし各取引先及び新規店舗へ営業、展示会を開くという流れだ。デザインのインスピレーションを受けるものはアイテムによって違うようだが、街を歩きながら目に入るものが多いのだとか。「例えば前を歩いている人のちょっとした着こなしで、崩れている感じがすごくよく見えて、あのアイディアをデザインに落とし込んだらいいんじゃないかっていうのがありますね」
スタンダードの中にもこだわりのデザインを
「大人も楽しめるカジュアルモード」をコンセプトに、スタンダードなアイテムの中にもこだわったデザインを落とし込んだ服を提案している。シンプルで定番に見えるものでも毎シーズン新パターンを作っていたり、時代によってディテールやサイズ感を変えたりしているそう。「首ぐりの広さひとつでも印象が全然違うから、その辺にはすごく気を使ってますね」。アイテム自体も日常に溢れているようなシャツやブルゾンをベースに、そこにいかにおもしろいデザインやコンセプトを汲みこんでいけるか、というスタンスで作られている。デザイナーとしてのこだわりを聞いてみると、「シンプルに見えても驚きがあるような、ちょっとしたいたずら心のような、仕掛けみたいなものがある服づくりですね」
良い反応をもらえることが何より嬉しい
仕事のやりがいを聞いてみると、「良いサンプルが上がってくると嬉しいですね。それとお店の方から納品した商品について良い反応をもらえた時も嬉しいです」と安生さん。逆に大変なこと、辛いと思うことは、デザインしたものが受け入れられなかった時だという。シーズンやものによっても波はあるようだが、そうした反応の良し悪しや結果をもとに来シーズンへと繋げていくのだ。1人でデザインを手掛けることについては、苦ではなく楽しいと話すが、もちろんスランプになることもあるようだ。「良いアイディアが出ないときは嫌になって辞めたくなることもあります。でも良いアイディアが出ると、また次のデザインを考えたくなるんですよね」
夢はコレクションと海外進出
「究極を言ってしまえば、お客さんに買ってもらって喜んでもらうことが大切で、服は着てもらえなかったら雑巾以下。何でもなくなってしまう」と言い、その信念はブレずに貫いている。現在の展望は、いつかはコレクションを行うこと。さらには海外でも挑戦してみたいという思いもあるようだ。現状を全うしつつ、しっかり足元を固め、具体的に何年先に夢を実現できるかということを見据えていきたいという。そしてこう語った。「なんでデザイナーをやっているのか考えることがあるけど、やっぱり洋服が好きだからってことになって、じゃあなんで洋服が好きなんだって考えると、理由が見つからないんですよね。いくら考えても結局は好きだからっていうところに行き着くんです」
※この取材内容は2011年5月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
馬渕 明恵
デザイナー
Y.M.Walts
仕事はマイペース、かつ着実に
2009年春夏コレクションより、自身のブランドを立ち上げた馬渕さん。現在は生産管理担当と、PRツールなどのビジュアル面を担当する2名のスタッフとともにブランドを運営している。シーズンコレクション前はテーマやイメージについて3人で話し合うが、その後は完全な分担制。展示会に間に合うように、各自が責任を持って作業を進めていく。「スタッフ同士フォローし合えない関係にすることで、責任は重くなりますが、そのぶんやりがいも大きくなると感じています。みんなで夜遅くまで作業することもありますが、スケジュールを守っていれば展示会の直前になって慌てることはそれほどありません。でも実はこう言う私が一番のんびりしていて、周りから『そろそろ作業始めたほうがいいんじゃない?』とよく突っ込まれます(笑)」
女性のための身近な服を作りたい
馬渕さんは文化を卒業して2年間アパレル企業に勤めた後、オーダードレスの制作をしていた時期がある。そこでさまざまな女性と直接向き合い気付いたのは、服が持つエネルギー。「ドレスをまとうことで、女性の表情がどんどん生き生きとしてくるんです。改めて服作りの楽しさを実感して、『女性のための身近な服を一生作り続けていきたい』と思いました」。ただし、同時に見えてきたのは技術の不足。そこで馬渕さんは、独学でパターンを勉強したり、レディース・メンズ両方のブランドでデザイナーとして経験を積んだりすることで高い技術や最新の知識を習得していった。「メンズブランドに在籍していたときは、体の動きを考えた服の機能性や、立体裁断からパターンをCAD用にデータ化する一連の流れを知ることができました。今量産用のパターンを引く際、ここでの経験が生きています」
自分なりの方法でアパレル業界を活性化したい
会社に所属していたときよりも自分の時間が増え、オン・オフのコントロールがしやすくなったことに満足しているという馬渕さん。独立して1年目は初めて経験する経営面での苦労があったが、今は充実した日々を送っている。「毎日を楽しく過ごすためには、自分らしく生きられる"基地"のような場所を作ることが大切だと思います。私の基地はまだ小さいかもしれませんが、今後も基地を軸にネットワークを広げていきたいです」。またブランド運営とは別に、アパレル業界全体を活性化するような活動も行っていきたいと語る。「将来的にはベテランと若い学生が交流したり、技術者から専門的な話が聞けたりする技能継承の場を提供できたらいいですね」
今の自分の原点は学生時代に出合った立体裁断
現在さまざまな立場の人と交流する馬渕さんだが、学生時代の友達には特別な思いを持っているとか。「文化の友達とは、喧嘩してもすぐ仲直りできる貴重な関係。当時話すことといえば、ファッションというよりも宇宙のことや生きる意味とか……出口のない哲学的な内容が多かったですが、みんなと他愛のないことを話すのが楽しかったです」。デザイナーとしての原点をつくったのも学生時代。服飾専攻科のときにビオネの作品に触れたことで立体裁断に目覚め、立体裁断で作った卒業制作では学院長賞を受賞した。「平面パターンはリアルじゃない感じがしてピンと来なかったのですが、立体裁断を知って目の前がパーッと開けた感じがしました。また卒業制作で賞を取ったことで生まれた自信は、社会人になってからの大きな支えとなってくれました」
自分の世界を表現したアトリエ兼ショップを開きたい
デザイナーの中にはクリエーションの才能があっても、経営面で壁にぶつかる人も少なくない。しかしそんな実情も、馬渕さんは冷静に捉えているようだ。「何事も考え方次第。世の中の流れを見ながら機転をきかせれば、障害をうまく避けながらゴールに辿り着くことも不可能ではありません。ひとつの方法にこだわらず、状況に応じた手段を考える柔軟性が大切だと思います」。現在Y.M.Waltsのアイテムは全国のセレクトショップで展開しているが、馬渕さんが次の目標とするのは、展示会の世界感をそのままお客さんに伝えるアトリエ兼ショップを開くこと。夢は大きく広がるが、まわりを冷静に見渡す目と自分のクリエーションを突き詰める情熱を兼ね備えた馬渕さんなら、実現する日もそう遠くはなさそうだ。
※この取材内容は2011年6月時点のものです。
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田中 望
Revolution PR アタッシュ・ド・プレス
多彩なブランドのPRを並行して行う
ファッションの中心地、原宿や青山の街を見下ろすマンションの一室にRevolution PRのプレスルームはある。田中さんが務める「アタッシュ・ド・プレス」とは海外で生まれた業務形態で、企業やブランドなどから依頼を受け主にメディアに向けてPR活動をする立場。日本ではアパレル企業に所属し、自社ブランドをPRする「ハウスプレス」が主流だったが、ここ十数年で有力なアタッシュ・ド・プレスの会社が生まれてきている。Revolution PRではメンズ、レディースあわせて常時10以上のブランドを取り扱っており、200年以上続く老舗から新人ものまでと幅広い。「ひとりが複数のブランドを並行して担当するため、情報・スケジュール管理能力とフットワークの軽さが求められます」
クリエイターとメディアをつなぐ
プレスの仕事は主に商品の貸し出し・返却の管理、編集者やスタイリストなどメディア関係者へのPR活動、広報戦略の立案、ブランドが展示会やコレクションをするときの窓口業務など多岐に渡る。ブランドを世に広めイメージアップを図るために奔走するアタッシュ・ド・プレスだが、あくまでもブランド外のスタッフ。ブランドへの愛情と客観性をいかにバランスよく持つかがポイントとなってくる。「僕たちはブランドの商品を扱いますが、ブランド所属の人間にはなれません。自分が担当するブランドには思い入れを持つことが大切ですが、同時に冷静な目も求められます。プレスによって考え方はそれぞれだと思いますが、どういったスタンスを取るかはむずかしいところです」
PRもクリエーションの一部
もともとデザイナーを目指していた田中さんは、知人の紹介でプレスの仕事に就くことになった。「正直、プレスという仕事がどういうものがよく分からない状態で今の事務所に拾ってもらいました」と田中さん。しかしやってみると、「PRもデザインのひとつではないか」という気持ちが生まれてきたという。「例えば『自分のブランドをやりたい』という人は大勢いますが、日本のファッション業界はクリエーション重視で、営業やPRは二の次ということも多いです。ですが素晴らしい洋服を作っても、多くの人の目に触れなければブランドを運営していくことはむずかしいです。僕も以前はそういった意識が抜けていましたが、今はアパレル業界に営業やPRの存在は外せないと思っています」
何事もマイペースが信条
アタッシュ・ド・プレスは人づきあいが大切だが、田中さんはいたってマイペース。「仕事が終わるとサッカーをしたり、電気屋さんに好きな家電を見に行ったり、ファッションとはまったく関係のないことをして過ごすことも多いです」そんな田中さんのマイペースな性格は、学生時代から。「授業や課題は最低限で、学校が終わったら遊びにいくタイプ。正直、真面目な生徒ではなかったと思います。でも遊ぶといっても、放課後に学食でからあげを買って、仲のいい友達と話すくらいでしたが……それだけで楽しかったですね。あとは、購買の生地屋のおじさんとよく話をしたのを覚えています。生地に関する知識は、生地屋のおじさんから多くのことを教えてもらいました」
ブランドを陰ながら支えていきたい
ブランドのPRをしていると、デザイナーやその周りのスタッフとはいつの間にか家族のような関係に。デザイナーのクリエーションに対してだけでなく、人柄にほれ込んでしまうことも多いという。「今後も、Revolution PRが関わっているブランドを陰ながら支えていきたいです」と語る田中さん。最後に、今多くの人が憧れるプレスという仕事に就くための秘訣について聞いてみた。「これは僕個人の意見ですが、一芸に秀でていたり、いろんな引き出しを持っていたりすると仕事がスムーズに運ぶと思います。単純なことで言えば、語学ができれば仕事に役立ちますし、野球でもサッカーでも何でもいいんです。共通の話題があると人との距離がぐっと近づいたり、ネットワークが広がっていったりするのではないでしょうか」
※この取材内容は2011年7月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
横尾 慶理
2004年
デザイナー
YELLAW
YELLAWデザイナーへ抜擢されることに
2011-2012年の秋冬コレクションより、メンズブランドYELLAW(イエロー)のデザイナーに就任した横尾さん。すでに3年目を迎えるこのブランドのデザイナーを引き継ぐことになったわけだが、そのきっかけは人との繋がりによるものだったという。「知人を通じてYELLAWの次期デザイナーを探しているという話を受けたのがきっかけです。今までデザイナー職だったわけではありませんが、自分自身、作る側に関わってみたいと感じていたタイミングでした。そこで、話だけでも聞いてみようとこのブランドを手掛ける会社の代表と会うことになりました」そこで初めて会った代表とも意気投合し、話し合いの結果、横尾さんがデザイナーに就任することとなった。
古着屋で培った、服に対する審美眼をいかして
スタイリスト科に在籍していた学生時代、横尾さんはスタイリストを志し、憧れのメンズスタイリストのアシスタントに応募するが、年齢の若さなどを理由に断られてしまう。そこで以前から、古着が好きでよく通っていた「ヌードトランプ」に入社をしたいと思うようになった。人気のショップへの入社希望者は多く、さらにその当時、女性スタッフしか取らなかったという狭き門だったが、ちょうど男性スタッフが辞めるというタイミングもあり、横尾さんが採用されることとなった。入社後、販売をしていたが半年後には、海外への買い付けに同行するようになったという。「販売をしながら、月1回くらいのペースでアメリカへ行くようになりました。初めはただついて行くだけで精一杯でした」。販売からバイヤー業務、そしてスタッフをまとめていくような重要な役割まで、多くの経験を積むことになった。
販売、バイヤー、そして物作りの現場へ
ヌードトランプで多くの服に関わっていくにつれ、横尾さんの中で「服を作る側」への興味が徐々に沸いてきたという。周囲にもそのことを話してしているうちに、YELLAWデザイナーへの話が舞い込んできた。デザイナー職をしてきたわけではなかった横尾さんだが、そこにためらいはなかったという。「全部初めてのことでしたが、今までのYELLAWのイメージを引き継ぐ必要性はなく、自分自身の好きな世界観を作り出していいということだったので、知らないことだらけでも楽しく物作りに挑むことができました」という。好きな古着をベースにしたデザインを取り入れたデザイン画を描き、制作を依頼するOEM会社との打ち合わせをこなしていく。初めて出会うOEM会社のスタッフとも気が合い、そこから物作りに対する多くのことを学んだ。「自分の頭の中にあるものをイメージ通りに伝えるのは難しいですね。作り手ともっとコミュニケーションを取ってそのあたりを強めていきたいです」。
ディテールにこだわった物をもっと追求していきたい
今シーズンが初披露となった横尾さんの新生YELLAW。全40型を展開し、評判も上々だ。特に魅力的なのが横尾さんの私物コレクションからサンプルを提案して作り上げた、こだわりのスクールジャケットだ。「年代でいうと1860~1930年代のものが好きで、買い付けに行っていた前職のときに、商品以外に私物として購入したものがたくさんあります。それらが今、サンプルとして役に立っています」。例えばストライプ柄が印象的なイギリスのスクールジャケットは、私物で30着くらいのコレクションがあるという。1930年代くらいまではストライプがプリントされていて、'40年代以降になるとストライプが織りのものに変化していくことなど、その時代の豊富な知識にも驚かされる。「その当時の形のおもしろさやディテールへのこだわりなど、YELLAWにどんどん取り入れていきたいですね」。
開拓していくこと、人脈の広がりを大切に
今は、次のシーズンへ向けてやりたいことが山積みだという。「もっと縫製工場さんを探していかなければと考えています。それによって作れる物の幅がぐっと広がっていくはず。小物を制作する会社や生地会社もそうです。ボタンなどもオリジナルを作りたいし、開拓していくべきことは山ほどあります」。それにはやはり人脈が大事だという横尾さん。学生時代からの友人とは仕事で関わることも多く、またデザイナー職となった今、わからない部分を聞くこともあるそうだ。「いいものを作りたいと思ったときに、周囲に協力してくれる人がいることで自分が願う方向に必ず進めます。学生時代から友人とのつながりや、文化以外でのコミュニケーションも大事にしてほしいですね」。
※この取材内容は2011年7月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
長谷川 徹也
2004年
企画営業
(株)ベロシティー
ハイセンスな携帯アクセサリーの普及
現代の携帯ツールとして欠かせないアイテムとなっているiPhoneやスマートフォン。それらをオリジナリティあるものにカスタマイズするのが今の時代のトレンドだ。それを叶えてくれるのがデザイン性の高いケースやカバー。「ギズモビーズ」は、人気ファッションブランドとのコラボレーションで携帯アクセサリーを多数展開し話題となっているメーカーだ。これまで数々のコラボレーションを実現し大成功を収めてきた陰には長谷川さんの存在がある。企画営業として働く長谷川さんは、新鋭ブランドから高い人気と認知度を誇るブランドまで、幅広い視野でセレクトしタッグを組み、これまでにない斬新でおしゃれなアクセサリーをこの世に誕生させてきた。
セレクトショップに入社し、多くの業務を兼任
MD科を卒業後は新宿にある「カワノ」へ入社した長谷川さん。販売を2年ほど経験した後に、それまでなかったというプレス業務を兼任することに。自ら意見や提案をする意識の高さが買われ、その後にはVMDという肩書も付くようになり、ひとつの会社で多くの経験を積むことになった。「就職は迷いましたね。バイヤーになりたかったので。とりあえずセレクトショップで経験を積むのがいいだろうと思ってカワノに就職しました」。そう話す長谷川さんだが、販売だけでなくプレスやVMDも兼任し働き続けているうちに、転職を考えたという。「色々やってはいたんですけど、バイヤーになりたいという夢から遠のいていると感じたんです」。そして5年間勤めたカワノを退社することになった。
独自の視点でブランドを世に広めるチャンス
2年前にカワノを退社した後は、ひとつの店の形として衣装のリース業務を始めた。しかし長くは続かず一旦休止することに。そんな時に学生時代の友人を通して現在の会社と出会い、企画営業として就任することになったという。主な業務としては、ブランドにデザインの依頼をし、アイテムが完成し販売されるまでの仲介を担っている。ブランドはストリート系からギャル系、モード系など幅広く、どれも"今"を彩る旬のブランドばかりだ。仕事の魅力を聞いてみると、「今までの自分だったら出会えないようなブランドの人と一緒に仕事ができること。それとあまり知られていないブランドを世に広めることができること」。長谷川さんは常にアンテナを張り、良いブランドを発見するようにしているのだそう。インターネットや人からの紹介、展示会などを通して発見することが多いのだとか。
人との出会いが多くの繋がりを生んでゆく
この仕事は人と人との繋がり、交わりが大切であるという。さらに同じ文化服装学院出身の人との出会いも多いようだ。学生時代は文化祭での照明係が思い出深いと話す長谷川さん。当時から率先して行動する頭の回転の速さと要領の良さがあったのではないだろうか。あまりまじめな方ではなかったと話すが、「学生時代の友人との出会いは大きいですね。文化だけじゃなくほかの学校出身の人との繋がりもできました。文化で服づくりを学んだことは仕事をする上で役に立っていると思います」。そして企画営業として心掛けていることは、「相手(クライアント)によって話し方を変えたりしますね。ブランドによってテイストが違うし、人柄も異なってきますから」
垣根のないセレクトショップを作れたら
もちろん楽しいことばかりではなく大変なこともあるようで、「一連の流れすべてに自分に責任がかかってきます」。会社とクライアントの間に入っていることもあり板挟みの状態で、かかってくる負荷も大きいようだ。長谷川さんの抱えているクライアントの多さからその多忙ぶりがうかがえるが、それでも生き生きと仕事をしているように見える。今後の展望としては「やっぱりアパレル業界の中でやっていきたいです。ブランドに捉われずに、より大きなブランドとやりたいし、トップメゾンとあまり知られていないブランドを一緒に売るということもやっていきたいですね。ゆくゆくは垣根のないセレクトショップを作りたいと思っています」
※この取材内容は2011年8月時点のものです。
【参照元】文化服装学院HP Next
田邊 剛
2002年
フォトグラファー
在学中、夢中になった写真が現在の職業に
メンズのファッション誌、広告、ミュージシャン、俳優などでフォトグラファーとして活躍する田邊 剛さん。服飾とは異業種ともいえる写真に魅力を感じるようになったのは、文化に入ってからだそうで「スタイリスト科に入学してから、ファッションだけでなく、映像、建築などにも興味を持つようになりました。ファッション誌というよりも、当時よく見ていたカルチャー誌から写真、フォトグラファーの世界を意識するようになった感じです。学生時代は、仲のよかった友達にカメラを借りて、人物や風景などのスナップ撮影に夢中になっていましたね。ヨドバシカメラで1本100円ほどの安いフィルムを買って、文化の近くにあった文具店で現像してもらったりして。そんな日々の中で、趣味だった写真を、なんとなく仕事として考えるようになりました」
憧れのカメラマンのアシスタントに
写真を仕事にするためにはどうすればいいのか、アシスタントになるという知識もなかったという田邊さんの目に留まったのが一冊のカメラ専門誌。「雑誌でよく見ていた、富永よしえさんの事務所の連絡先が載っていたんです。アシスタントの募集はしていなかったのですが、履歴書と作品を送って、本人から連絡をもらうことができました」幸運にも採用が決まり、「戸惑いの連続だった」というアシスタント時代がはじまる。「初めて撮影現場に行ったときは衝撃的でしたね。スタジオの中に一つの空間を作りこんでいて、独特の空気が流れている感じでした。自分の写真は、偶然のタイミングで撮影したスナップばかりだったので、空気感をつくることを学びました」
約3年のアシスタント時代を経て、独立
アシスタント時代には、カメラの技術的なことだけでなく、社会人としての基礎知識、フォトグラファーとしての想像力の大切さを師匠に教わったという田邊さん。「師匠からの教えはもちろんですが、アシスタント時代にいろんな現場を見れたことは貴重な経験になっています。24歳で独立してからは、カメラの機材をそろえるためのお金のやりくりがたいへんでしたね。最初は、暗室なども友人に借りたりしていたんですが、師匠に『人に甘えるな』と怒られたことがあって…。自分で苦労して手に入れることで、大切にする気持ちや、重みがわかってくるんだと教えられました」そんな厳しくもやさしい師匠から譲り受けた写真右上の「NIKON F3」は宝物の一つだそう。
フィルム写真にこだわって
雑誌の分野でもデジタルでの撮影が一般的になっているが、田邊さんは今でもフィルム撮影、紙焼き入稿にこだわっている一人。「カメラに興味を持ったときからフィルムで撮影していたので、カメラのフォルムや重さ、シャッターをきる感触、緊張感などの気持ちの持ちかたが全然違うんです。クライアントなど、仕事先の媒体が紙焼き入稿を受け入れてくれることがまず必要ですが、写真のあがりの質感、空気感のイメージがつけやすい、ということもありますね。普段、ポケットに入れて持ち歩いているカメラもレンズ付きフィルム! iPhoneで撮影することもありますし、スマートフォンのカメラは画像を共有できるところが魅力ですが、撮っていて楽しいのはレンズ付きフィルムなんです」
今、興味があるのは大判カメラでの撮影
この取材をお願いした前日まではサンフランシスコ、2ヶ月ほど前にはハワイへロケに出かけていたという多忙な日々の中で、田邊さんの息抜きとなっているのがお気に入りのそば屋での一杯。「そばが大好きなんです。わざわざ遠くへ出かけるというよりも、生活圏の中のそば屋に行くことが多いですね。遅めの昼食に出かけて、日本酒を飲みながら本を読み、そばを味わって帰るのが休日の過ごし方です」目下のところ、田邊さんにとってのライフワークは模索中だそうだが、今、一番興味があるのは8×10(エイトバイテン)の大判カメラでの撮影。「カメラ市で本体を手に入れ、気に入っているレンズをつけて使っています。あがりの雰囲気が好きなので、もっと使いこなせるようになりたいですね」
【参照元】文化服装学院HP Next
黒澤 充
2000年
スタイリスト
文化服装学院進学のきっかけは、スケートボード
雑誌、広告をはじめ、ミュージシャンや俳優など、様々な分野のスタイリングを手掛けている黒澤 充さん。さぞや子どものころからファッションが大好きだったのだろうと思いきや「趣味は中学生のころからはじめたスケートボード。高校卒業後の進路を考えていたころ、大好きなスケートボードと繋がりのある分野に進みたいと思って。スケートボードもファッションもひっくるめた“カルチャー”を学んでみたいと思ったのがきっかけです。でも、ファッションの知識は、母とよく見ていたテレビのファッション情報番組からぐらいで。スタイリスト科を選んだのも、一番言葉の響きがよかったから(笑) 当時は、ブランド名もほとんど知りませんでしたね」
実践で身につけたスタイリストの仕事
文化時代はしょちゅう授業をさぼっていた(!)という黒澤さんですが、卒業してから、あらためて「スタイリストって何だろう」と考えるようになったとか。「卒業後、スタイリストの望月 唯さんのアシスタントに就いて、はじめて仕事の現場を見ました。当時、マガジンハウスから発行していたカルチャー誌が好きで、その雑誌のスタイリングを担当していたのが望月さんだったんです。アシスタントになってからは、撮影用の洋服や小物をプレスルームから借りるためのアポ入れや、靴の底張りなど、授業では経験していない仕事ばかりで……。一つ一つの仕事をこなすのに必死でした。スタイリストの仕事は、人との繋がりも大切な世界なので、コミュニケーションの必要性も感じましたね」
仕事を認めてもらえて、師匠と同じ事務所に
アシスタントから独立し、フリーの仕事をスタートさせたのは2006年のこと。「フリーで仕事をしながらも、アシスタント時代に出入りしていた事務所『eight peace』にまた入りたいと思っていました。スタイリストとして事務所の一員になることを一つの目標にしていましたね」。2009年には努力が実り、師匠である望月さんをはじめ、スタイリスト、カメラマン、ヘアメイクアップアーティストなどが籍をおく『eight peace』に所属。また、独立してからは、黒澤さんがアシスタントを育てる立場にも。「スタイリストのアシスタントはまじめな人が一番。ファッションの知識はあるに越したことはないけれど、まずコミュニケーションがとれることが大切。やる気さえあれば、センスは磨かれてくるものです」
気分転換は、多肉植物の育成!?
この「Next!」の取材で黒澤さんにお話をうかがったのは午後10時すぎ。そんな、寝る間もなくハードな毎日を送っている黒澤さんに休日の過ごし方を聞いたところ、意外な回答が。「今のマイブームは多肉植物なんです。スタイリングに使ったのがきっかけですが、一つの仕事が終わるごとに1鉢買っていたら、コレクションのように増えていって、今では約60鉢に。同じ多肉植物でもいろんな種類があるので興味が尽きません。千葉の生産者のところまでドライブを楽しみながら出かけて、育て方などの話をしながら過ごし、ご飯を食べて帰ってくる……これが楽しみであり、日々の気分転換になっています。植物でも、音楽でも、いろんなジャンルの話ができる人との出会いは、いい刺激になります」
ファッションエディターとしての力をつけたい
スタイリストの仕事は、コーディネートのセンスだけでなく、誌面構成やストーリー作りの独創性も問われるところ。左の写真は、黒澤さんのラフコンテで、バッグの中には、iPhoneやスケジュール帳などと一緒に、ラフコンテや企画書、リサーチした洋服の写真などを貼ったノートなどがきれいに整理されて入っている。「同じスタイリストの仕事でもジャンルや媒体によってそれぞれの楽しみがありますが、今、やっていて一番楽しいのが雑誌の仕事。編集者、カメラマン、ヘアメイクアップアーティスト、モデルなど、スタッフと息を合わせて一つのストーリーを作り上げる達成感が魅力ですね。最近では、レディースのスタイリングも多くなってきました。これからは、エディター的な能力をもっと身につけられるようにしたい。そのために常にラフコンテを描いています」
【参照元】文化服装学院HP Next
牛島 香織
2005年
編集
CUBE INC.「コモンズ&センス」「コモンズ&センス マン」
卒業後はセレクトショップの販売員に
1997年に創刊した「コモンズ&センス」は、ファッションをベースに音楽、カルチャー、アートを取り込だ日本で唯一のインターナショナルファッションマガジン。現在15ヶ国28都市で販売され、そのハイセンスかつハイクオリティな誌面創りは、日本におけるファッション誌の概念を覆したといっても過言ではないほど唯一無二の存在感を放っている。2006年には「コモンズ&センス マン」も創刊され、これら二誌のエディターとして働いているのが牛島さんだ。スタイリスト科を卒業後の同年6月から入社したが、実は新卒でセレクトショップでの採用が先に決まり、2~3ヶ月ほどは販売員として働いていた経緯がある。「採用試験が1日違いであったんですが、「コモンズ&センス」の方は面接でボロボロだったので絶対にダメだと思っていました」
わずか数ヶ月遅れたタイミングで雑誌編集の世界へ
販売員として働き始めて1ヶ月も経たない時に、「コモンズ&センス」編集長から採用の連絡が入ったという。しかし、「ものすごく悩んで… 一度はお断りしたんです。でも家族や友人など周りの人たちの後押しもあり、“販売は地元に帰ってからでもできるけど、雑誌の仕事は東京じゃないとできない”ということで決意しました」 3ヶ月ほど務めた販売を辞め、志望していた編集の世界へ。もともと雑誌が好きでよく読んでいたが、文化在学時に同じクラスで今も仲の良い友人に雑誌の仕事をすすめられたのがきっかけでこの仕事を意識しだしたそう。面接では見事に玉砕し入社は絶望的だったというが、「たまたま編集長が私の字を気に入ってくれて。それが採用の理由だと聞いています」
雑用から始まり徐々に仕事を身に付けていく日々
雑誌編集について何の知識もないままに入社した当初は、入れ替えのタイミングであったこともあり、スタッフはわずか3名しかいなかったそう。雑用から始まり、ほかのスタッフに教えてもらいながら仕事を覚えていったようだ。雑誌作り以外にも百貨店やブランドのキャンペーンビジュアル制作やイベントプロデュースなどを行うこともあり、細かい雑務をこなしていくうちにPC作業にも慣れ、自力で習得していったという。「やるしかなかった状況だったので、それで覚えていきました。でも働き出して1〜2年目までは毎日泣きながら帰ってましたし、辞めたいと思ったことも何度もありました。でも地元を離れて働きだしたからにはすぐに辞めるわけにいかなかったし、(前職の)販売の人たちにも(入社してすぐ辞めてしまって)申し訳ないという思いもありました。あとは周りの人たちが応援してくれていたのも大きいですね」
7年の実績が認められ信頼される存在に
今では入社8年目を迎え、ベテランの風格すら感じさせる牛島さん。それでも撮影のプロダクションを任されるようになるまでは3~4年がかかったという。現在は2006年に創刊された「コモンズ&センス マン」もあり、二誌の編集業務を担っている。牛島さんが任されている主な仕事のひとつにプログレッシブマネージャーというものがあり、毎号進行表を作成し誌面コンテンツの進行管理をしている。さらには編集長のアポイントや撮影スケジュールなどの管理も任され、まるで秘書のような一面も。「スタッフ全員が確認する、編集長のスケジュール表はきれいに書くことを心掛けています。雑誌では特に、インプリント(スタッフクレジット)を責任を持ってしっかりと確認すること。校了前の文字校正も責任重大なので編集部全員で気を付けていますね」
一流のクリエイターたちと雑誌を作り上げる楽しみ
仕事を通じてたくさんの出会いがあることに魅力を感じていると話す牛島さん。「憧れていたフォトグラファーに会えたり、自分が想像していた以上のビジュアルが出来上がった時は嬉しいですね。一流のスタッフたちが雑誌に賛同してくれて良いものを一緒に作り上げていくことにやりがいを感じます」 休日は友達と会ったり、家で料理をしたり、街をブラブラしたりするといい、オンとオフにメリハリをつけていることが仕事を円滑に進められるコツなのだろう。「他誌で働きたいとは思わなくて、これからもうちの雑誌で働きたいですね。まだまだできてないことだらけなので」 最後に、編集という仕事において必要な要素は何かと聞いてみると、「根性ですかね」 その返答に思わず納得してしまった。
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安武 俊宏
2005年
プレス
(株)ビームス クリエイティブ
新卒で入社し販売員としてキャリアをスタート
ショップやブランドの顔として自社で扱う商品をPRする仕事、プレス。ここ日本のファッション業界において言わずと知れたセレクトショップ、ビームスでプレスを務めているのが安武さんだ。安武さんがプレスに就任したのは今年の3月。文化服装学院のスタイリスト科を卒業後すぐにビームスへ入社、メンズクロージングを担当し販売員として勤務した。「もともとはスタイリストに興味があってスタイリスト科に入学したのですが、徐々に販売もおもしろそうだなと思い始めました。ちょうどその頃、新卒の入社試験に受かったので入社を決めました。ファッションショーを作り上げるのが好きだったので、ぎりぎりまで専攻科に進学しようか迷いましたが…」 販売員を7年間務め、キャリアを積み重ねていった。
販売を通して学んだホスピタリティ
入社した当初は販売員としてキャリアアップを目指していたが、この1、2年でプレスに興味を持つようになったという安武さん。販売員時代はホスピタリティを学んだという。「メンズクロージングのフロアなのでお客様が年上の方が多いこともあり、言葉遣いやちょっとしたしぐさなどに気をつけていました。入りたての頃はまだ二十歳だったので、子供っぽく見られないように、どうやったら落ち着いて見えるか、大人っぽく見えるかというのを気にかけてましたね」 洋服の着こなし方から言葉遣い、接客対応の仕方などを先輩から学びながら徐々に身に付けていったようだ。そうして販売員としてキャリアを積んでいき、8年目でプレスに見事就任することになった。
販売で培った感覚をプレスに生かして
販売員の頃は毎日同じ時間に同じ場所に行きお客様を迎え入れるという体制だったのが、今は自ら動いて仕事をするというのが大きな違いだと感じ、それがとても楽しいという。現在のプレス業においては販売で培った経験が生きているようだ。「媒体に出す商品を考えるにしても“この時期にお客様に何をすすめるか”という感覚はやっぱり販売が基盤になっていますね。そして“ビームスらしいコーディネート”の提案においても同じことが言えるようで、「セレクトショップなのでその店らしさというのが大事になってきます。それも店舗経験が長かったからこそ身に付いたと思いますね」
幅広い能力を要するプレスという仕事
プレスの主な仕事内容としては、リース対応、撮影や取材の立ち合い、媒体からのアンケートの記入、校正作業などがある。年に二度ある媒体向けの内覧会も行っている。プレスの仕事は楽しく刺激的だと話す安武さん。「もののできる過程を見られるのがすごく楽しいです。例えばスタイリストの方が商品を借りにいらして、それがどういう形で載って誌面になるかっていうのが」 現在進行中だというカタログの制作も出来上がりが楽しみのよう。プレスは“何でも屋”のようだともいい、「洋服を着せたりアイロンをかけるといったスタイリストのようなこともするし、人と人とを繋げるアテンド的なこともするし、本当に幅広い能力が必要だなと感じます。社内外を問わず、常に職種を意識することで責任感が増しましたね」
仕事を楽しむためには妥協しない
プレスに必要な要素を聞いてみると、「様々なスキルが必要だと体感しています。商品知識もそうですし、会話の能力や、一番は人に喜ばれる立ち居振る舞いができること。初対面の方と話す機会が多いので、引き出しを多く持っておくことも大事だと思います。洋服以外のものにも興味を持つことで、逆にそれが洋服に繋がったりもしますから」 学生時代はファッションショーの企画を担当していた安武さんは、人脈作りやショーを作り上げる工程がプレス業務と似ているところがあるという。プレスとしてこれから邁進していく日々。「僕は結構仕事が好きで、仕事がうまくいかないと凹むタイプ。だから仕事を楽しむためには妥協しないですね。プレスとして仕事をどんどん覚えてしっかり動けるようになりたいです」
【参照元】文化服装学院HP Next
杉村 萌弥
アパレルデザイン科メンズコース
販売・企画
コットンフィールド
お客様に近い人が売れるものを感じて仕入れをする
東京・吉祥寺にある「コットンフィールド」は、生地や洋装材料、アクセサリーパーツなどを取り扱う人気の手芸屋さん。そこで販売、仕入れ、企画を手掛ける杉村さんは、手作りを楽しむお客様へ喜んでもらえるような様々な提案をしています。「1日の仕事で多くの時間を費やすのは販売です。会社としては販売している人が一番売れるものを知っているというスタンスなので、販売と仕入れ担当を分けずに兼任しています」。そのため、国内外問わず商談や取引を重ね、海外へ買い付けに向かうことも多い。杉村さんは、お店の特徴でもあるUSAコットンの仕入れから、アクセサリーのパーツ、リボンなどの服飾資材に至るまでジャンルを問わず、すてきなものを見つけてきては仕入れをしている。
ハードながらもやりがいのある海外での買い付け
仕入れの方法は多岐に渡り、海外からパターン(生地の見本帳)を送ってもらい、柄を選んで発注したり、常に取引のあるメーカーから新商品を選んでくることもある。半貴石(天然石)、ヴィンテージパーツ、ビーズパーツなどは直接海外へ行って買い付けることが多いという。「天然石などの仕入れでは2週間前には香港へ行ったばかり。またアメリカのアリゾナ州などにも訪れています。最近ではリボンや羽根などの服飾資材の仕入れで韓国に行くことも多いです」。仕入れは身体的にはハードだというが、好きだから苦にはならないという。「買い付けはすごく重要な仕事です。それでお店の売り上げも変わってくるから」。輸入品をはじめとする他では手に入らないような商品ラインナップのセンスが大事な柱となり、そこを担う杉村さんのやりがいは大きいようだ。
企画という仕事もお客様への重要なアピールに
手作りを楽しむお客様へ向けて“アイディアを届ける”というのも重要な仕事。企画という肩書を持つ杉村さんはお店の材料を使って、サンプルなども制作している。「参考見本として作ったサンプルと同じものが作れますよ、というパーツのセット販売を提案しています。ネックレスやピアスなどのアクセサリー類から、初心者の方でも、貼るだけで仕上がるバッグのアクセント作りなど、様々なアピールをしています」。自らが作ったデザインアイディアを多くのお客様が気に入って作ってくれる、そんな瞬間はとてもうれしいそうだ。アルバイトのときに初めて作ったキーホルダーのサンプルはとても評判が良く、自分自身の記念として買い取った思い出の品だそうだ。
難しさと喜びを感じる販売という仕事
入社して7年目となるが、今でも難しいと感じているのが接客の仕事だそう。「出張中でも、宿泊先やレストランなどでいいサービスを受けたらそれを学んで生かすようにという会社の方針があります。良い接客を目指そうとすると、まだまだやるべきことは多く、奥深い仕事だと感じています」。多くのアルバイトを抱える同店では、年齢は若くても社員である杉村さんが様々なことを管理しなくてはいけないこともあり、日々勉強中だそうだ。「でも接客中に、自分が仕入れた商品が売れていくと“よし、やっぱり!”って仕入れに確信が持てて、嬉しくなります。しらみつぶしに探して仕入れたとっておきのパーツが売れていく場に立ち会えるのは、販売をしているからこそ味わえるものですね」。
スキルアップしながら仕事を邁進していきたい
在学中は、文化祭をはじめとするファッションショーの企画長として、年間を通じて多忙な日々を過ごしていた杉村さん。「その分、クラスの垣根を越えて、とても多くの友人ができたことは今でもよかったことだと思っています」。イラストレーターになった学生時代の友人とは、社会人になったから展示会を開催したりするなど、今でも多くの友人と交流があるそうだ。「展示会で発表した作品の一部は今もお店に飾ってあります。そういった活動も理解してくれるので、忙しいながらも日々楽しく仕事をしています。今後は仕入れに行くために、もう少し英会話などのスキルを磨いていければと思っています」。
【参照元】文化服装学院HP Next
塩澤 光
2007年
図案家 Lab.DROPOUT
卒業間近に見つけた図案家という職業
私たちが普段目にすることの多い洋服の生地の絵柄、プリント。それをデザインするのが図案家の仕事だ。図案家はテキスタイルデザイナーとは違う、と塩澤さんは言う。もともと絵を描くことが好きだった塩澤さんはグラフィックデザインの学校を出た後に文化服装学院へ入学。3年目に入るも就職活動をしないまま卒業式を目前に控えたある日、たまたま装苑を見ていたら「ドレスキャンプ」の図案家が紹介されているのを見て興味を持ち、テキスタイルの先生に講師の先生を紹介してもらうことに。卒業式の日にその先生に会い、塩澤さんの絵を見てもらうと「うん、大丈夫。これならできる」と言われたそう。後日再度会った時に多くの企業を紹介されるが、「京都でフリーでやっている図案家さんがいて、変わってる人だと聞いてそこに行くと決めました」
師匠のもとで学んだこと
卒業後すぐに京都へ行き、事務所に住み込みで弟子入りすることに。師匠は手描きだった時代からPCでの作業に移行した初期の方なのだそう。「京都に行って即日描き始めたんですけど、『自分に才能があるなんて思うなよ』って言われましたね。衝撃的でした」。まず理解しないといけないことが“送り”と言われるもので、1枚の柄が永遠に繋がるように描くこと。これは横四方送り、ステップ送りが基本にあり、横に続く絵、一度斜めにいって続く絵という違いがある。ここで求められることは数学で、柄によって画角サイズが変わるので計算しなければいけないのだ。ほかにも「柄ではなく余白を見ろ」、「良い柄は誰にも気付かれない柄」、「図案家で認められる人というのは生きている花が描ける人」など、「師匠からは技法というよりも、言葉、仕事に対する姿勢、精神を学びました」と塩澤さん。
見る目が養われたヨーロッパ一周旅行
京都の師匠のもとで図案家の仕事を学び、2年で独立。「図案家は本当は最低10年は修行しなきゃならないんですけど、僕は勝手に2年で辞めて独立しちゃったんです」。その後半年くらいの間はバックパッカーになりヨーロッパ中を旅したそう。その時に食事以外のお金をすべて美術館巡りに費やしたという。「あの時に良いものをたくさん見たから、自分で良いと思えるランクがめちゃくちゃ上がりました。美術館にあるものが必ずしも自分自身の感覚で“良い”と思えるものだけとは限らない。確かに美術館というところに答えがあると思って行くけど、自分自身が見て答えを出せばいいんだと気付いたんです。自分で決めていいんだとわかった時に、一気にランクがぐんと上がった気がしました」
観察、理解、判断して柄を描く
ヨーロッパ旅行から帰国後も、図案家になろうとは思っていなかったそう。しかし学生時代の友達の繋がりで仕事を依頼され、図案家として仕事をしていくことに。絵柄を描く上で、柄の雰囲気や表情を観察し、それを理解して、判断して描くというのが塩沢さんのやり方のようだ。「うまく描こうとすると良い絵が描けない。邪心が線に表れるんです。みんなが共通認識で良いと思えるものって普遍的にあると思うので、そこにできるだけ寄り添いながら個を表現するとなると難しいですよね。どう個を出しながら売れ線を描くか。ただ描いてるだけで幸せとは思いたくないし、仕事として成り立っている以上、デザイナーさんの手になって描くつもりではいます」
これから描きたいのはスカーフの絵柄
修行時代も含めると図案を描きだして約3年半が経ち、今ではほぼ毎日仕事の依頼が舞い込み、徹夜で作業をするほど多忙な様子。そんな仕事の合間に自分の描きたいオリジナルの絵を描くことでバランスをとっているようだ。今後の展望については、「もちろんちゃんとした図案家になるということも続けながら、基本的にはそんな時代はすぐには来ないだろうと思っているけど、できるだけ手で、筆や鉛筆で描きたいと思ってます。オリジナルも描き続けたいし、その中で表現ができてお金になると思うものがスカーフだと思っているので、今は少しずつストックしている最中です。とりあえず今年中にHPができ上がるので、1つ1つゆっくりやろうと思ってます」
【参照元】文化服装学院HP Next
杉原 淳史
2007年
smoothdayデザイナー
小野莫大小(メリヤス)工業
「気持ちいい」感覚を呼び覚ます素材
小野莫大小(メリヤス)工業が開発した特許素材「コズモラマ」。コットンやリネンといった天然素材を使い、吸水速乾性などの高い機能性とファッション性を併せ持つ、国内外の一流デザイナーの厚い支持を得る素材だ。杉原さんも、コズモラマに惚れ込んだデザイナーのひとり。「僕自身もそうでしたが、一度着ると脱ぎたくなくなる肌触りのよさを、一人でも多くの人に知ってほしい。着るものに無頓着な人こそ、着心地のいい服を着ると気分がまったく違ってくることを体感してほしいです」ショップsmoothdayでは、カットソーなどの衣類だけでなく、生活の中で肌に直接触れるさまざまなものをコズモラマに置き換え、誰もが持つ「気持ちいい」という感覚を呼び覚ましたいという。
コズモラマとクリエーション
杉原さんがコズモラマに出あったのは、パリの有名メゾンでデザイナー・パタンナーをしていたとき。チーフデザイナーの男性が着ていたカットソーに、それまで抱いていたジャージー素材のイメージを覆す衝撃を受け、その存在を知ったという。「過去のどの素材にも該当せず、モダンでありながら老若男女が永遠に着られる、また着たいと思わせることのできる素材だと確信しました」コズモラマを多くの人にどう伝え、どうシェアしていくかを考えた結果、「最初にショップを作る」という今までのファッション業界とは逆のアプローチで、テキスタイルメーカーの未来のあり方をお客さんとともに作り上げたいと思った杉原さん。今後はコズモラマの魅力や特性を、パリで突き詰めた立体裁断の高度なテクニックを使って、惜しみなくアピールしていきたいそうだ。
ファッション業界の常識を崩したい
杉原さんが「今後デザイナーとしてどう生きていくか」を考えるとき、コレクションで作品発表し、バイヤーやメディア関係者に実力が認められ、ショップで商品が展開される…という既存の流れには少々限界を感じるようだ。「たとえばセレクトショップに商品を置いても、お客さんが数多くの商品のなかから自分の商品を選び、素材の特性をきちんと理解してくれる可能性は低いです。時間はかかりますが、ショップで一人ひとりに素材や商品の魅力を伝えて支持者を増やし、その上でコレクションやショップの世界観ごと海外進出を目指すほうが息の長い活動ができるかなと思います」杉原さんが目指すのは、これまで縦の関係にあったテキスタイルメーカー、デザイナー、消費者が横につながり、ともに歩んでいくことだ。
同級生のひと言が夢実現の第一歩に
現在smoothday立ち上げのために、杉原さんを強力にサポートするのがディレクターの加藤智啓さんと、内装デザインを担当する林洋介さん。杉原さんと加藤さんは文化時代の同級生で、杉原さんに小野莫大小工業に入るようアドバイスしたのも加藤さん。「自分のアイディアをどういう形で実現させようか悩んでいたとき、加藤くんが『そこまで思い入れがあるなら、社員になるのが近道では?』とアドバイスをくれました。加藤くんの一言がなければ、今の僕はなかったかもしれません」その後社長の前でアイディアのプレゼンを行った杉原さんは、見事入社が決定。とんとん拍子に夢が実現する運びとなった。「一度は面接を断られたのですが、半ばごり押しで話を聞いてもらったところ、僕の考えと社長のビジョンが一致し、入社後も全面的にサポートしてくださっていて、社長には感謝してもしきれません」
文化として後世に残る服作りをしたい
誰しも「美味しい」ものが好きなように「気持ちいい」ものが好きなはずだが、「悔しいですが、衣食住の中で衣(ファッション)はまだ一部の人たちの楽しみで、幅広い層に浸透していません」と杉原さん。ましてや今は低価格のファストファッション全盛期で、いわばファッションは大量生産・消費の一過性の流行になってしまっている。だが、smoothdayでは着心地や洋服のシルエットといった本質で勝負し、ファッション=ライフスタイルということをデザインの力で届けていきたいという。「日本に戻ってきて1年、すべてはこれからですが、パリで得た立体の知識・テクニックと素晴らしい素材を融合させ、文化として後世に残るものを作っていきたい。そして、ファッションの裾野を広げていきたいです」素材や服作りに対する杉原さんの真摯な思いは、ファッション界に新風を吹き込んでくれそうだ。
【参照元】文化服装学院HP Next
加藤 智啓
2007年
代表/デザイナー/アートディレクター
EDING:POST
服とプロダクトデザインの間を目指して
アートディレクターというと、一般的には手を動かさずに目に見える部分の指示を出す役割というイメージがあるが、加藤さんの場合は違っていて、企画の段階から携わり、最終的なデザインまでを一貫して担っている。そのジャンルは幅広く、アパレル事業だけでなく植物、花火、お米、コーヒー、パンケーキなど…実に多彩だ。起業したのは在学中の2007年。小さい頃から物作りに興味があり、美術系の高校で3年間アートを学んだという加藤さん。「文化に行ったからと言って服を作るという概念ではなくて。アパレルを身に着けたから出来ることがふくらんでいったという感覚です」。2年次に“服とプロダクトデザインの間”となるものを考案し、最初は1人でデザインし作ってみたのが始まりだった。
在学中に発表したものがプロのバイヤーに認められる
在学中に思いつき1人で作ってみた製品は、コストが割に合わず商品化は出来ずに終わる。しかしそれを機にいろいろなアイディアが浮かび、3年次にはハンバーガー(の包み紙)に見立てたTシャツを手作りで50着製作し展示会を開催。そのアイディアが好評で見事完売した。「これは売れるなと実感しました。プロのバイヤーさんも来ていて、お店に置くという話が現実味を帯びてきて、実際にオーダーをもらったので作らなきゃいけない状況になりました」。100単位でのオーダーになったため工場を探し量産することになったが、それが売れたとしても原価にかかる出費があり、収入は見合わなかったという。生活するためにアルバイトと掛け持ちでデザインの仕事を進めていった。
アイディアを製品化してくれる会社との出会い
次に考えていた製品もコストが掛かるため1人では生産できずに悩んでいた。そんな時、プロダクトを製品化してくれる会社と出会うことになる。アイディアを売り込み、その会社が惚れ込んでくれたら製品化してくれるのだという。売り込みに行くとアイディアを気に入られ製品化することが決まる。それが4年次(ファッション高度専門士科)のことだが、製品化されたのは加藤さんが卒業してからだった。「プロダクトの世界って製品化されるまでに早くて1年くらいかかるんです。検討や調査、デザインの権利などで。製品化されるまでの1年間で、ほかの商品のデザインを考えて展示会に出展したり、新作を作り貯めて発売もしていました」。無事製品化された商品は、売り上げがその会社の1位を記録し、世界規模で取り扱われる大ヒット商品となった。
人から人への繋がりによって仕事が広がっていく
それ以降、仕事の量は増えていくが、収入面ではなかなか満足のいく状況には至らず、3年ほど悩む時期が続いたようだ。4年目くらいから仕掛けてきた商品が売れて軌道に乗り、その頃からお店のディレクションなども手掛けるように。「仕事はわらしべ長者みたいに拡がっていったんですよ。僕が作ったものを見た人が仕事を依頼してくれて、それを見たまた別の人が仕事を依頼してくれて…って、人から人へ」。関わった1つの仕事から2~3つの仕事が舞い込むようになり、その規模はどんどん広がっていった。「もともと全体を手掛けるのが得意なんです。僕の場合デザインだけじゃなくてトータルでの組み立てができるので、今のスタイルがすごく自然。トータルでやるから実質の売り上げも上げているんですよ」
困っているクライアントを救えるデザインの病院
今ではお店やブランドだけで20プロジェクトが同時進行しているという。「デザインの病院みたいなものを作りたいと思っているんです。デザインに困っていて頼みに行ったら回復して帰っていけるような。デザインして納品したらそれで終わりなんじゃなくて、そのことで何がどう変わるのか? 関わった人がどうなるのか? っていうことに興味があるんです」。加藤さんの人生プランは「20代は受け仕事をやりきって、30代からは自分でも自主企画をやろうと思ってるんです。デザインという領域を完全に飛び越えて、今のこの時代に必要なことをもっともっとやっていきたいです。少しでも明日が豊かになることを」
【参照元】文化服装学院HP Next
渡部 さゆり
2006年
企画・デザイナー
(株)ロイネ
一番アツいものは“男のパンツ”!
国内大手のインナーウェア総合メーカーであるロイネでライセンスブランドの企画・デザインに携わる渡部さんは、2年間の構想を経てオリジナルのルームウェアブランド「ワンサード」を今年4月に立ち上げたばかり。取り扱うブランドは男性がメインターゲットとなるが、そもそも女性である渡部さんがメンズのインナーウェアのデザイナーになったきっかけは何だったのだろうか? 「卒業する前に進路を考えた時に、『いま一番アツいものをやろう!』と思って、それが私にとってはメンズのアンダーウェアだったんですよ。感覚的にはTシャツが好きとか、靴が好きとか、そういうのと同じで私は“男のパンツ!”だったんです」。そしてロイネという会社に出会い、卒業後入社し現在に至る。
オリジナルブランドの構想がスタート
渡部さんが文化服装学院を卒業する頃、今から5~6年前はメンズのアンダーウェアが目立ち始めた時期だったという。そういうものを目にする機会もあり、どんどん興味を持つようになる。在学中にはメンズアンダーウェアのコンテストに入賞した経験もあるのだとか。入社してからはライセンスの企画に携わり、デザインをしたり企画全般の仕事を務めてきた。そして2年ほど前に社内でオリジナルのプライベートブランド立ち上げの案が生まれた。「外部のバイヤーさんからも言われるようになったり、自分でもやりたいと思って、そうしたすべての流れがあってオリジナルブランドの構想が始まりました」しかし初めから順調に進んでいったわけではないようだ。
快適さとデザイン性を兼ね備えたルームウェア
「どうせ新しいことをやるなら誰もやっていないものをやりたくて…、いろいろと揉めました。いろんな時間の流れもあって、仕切り直して進めていきました」。そして2年の構想を経て今年ついにデビューを果たしたのが新ルームウェアブランド「ワンサード」だ。コンセプトは「1日の3分の1のために」。1日の3分の1以上の時間を家で過ごすからこそ、その時間は居心地よく、気持ちのよいものであってほしいという思いが込められている。インナーウェアメーカーとしての強みを生かし、そのまま眠れるくらいの快適な仕様や生地の風合いにこだわり、そのまま外出もできる高いデザイントレンドを取り入れたユニークなアイテムが展開されている。
仕事とプライベートのメリハリを心掛けて
「ワンサード」だけでなく他のライセンスブランドの企画も兼任しているので、多忙なスケジュールに追われる日々。本人としても仕事をする上でスケジュール管理は特に心掛けているという。しかし1~2年前からは仕事をする時間の管理を気にするようになり、「アパレルだと昼も夜も年中働くような人が多いけど、それだといい考えが浮かばないし、仕事と同じくらい遊んでないと友達も増えないし。仕事のスケジュール管理も大事だけど、プライベートの時間は無理やりにでも休むように意識してます」。プライベートは外出することがほとんどで、友人と飲みに行ったり、イベントで会うことも多いようだ。「友達と会ったり交流することで刺激やパワーをもらってます」
いつかドレスコードが“パジャマ”のパーティーを
仕事をしていてやりがいを感じる瞬間は様々あるようだが、「お店に自分の商品を見に行った時に、それを持ってレジに並んでいるお客さんを見た時が一番嬉しいですね。自分も一生懸命働いているし、そのお客さんも働いて稼いだお金でその商品を選んで買ってくれるのを見て感動します」。今後の夢と展望を訊ねてみると、「ルームウェアを文化にして広げていきたいです。今まではないがしろにされていた1日の3分の1の時間に着る服にもこだわって、いろいろなパジャマやルームウェアを着たっていいじゃない! って思うんです。そういう感覚が広がって、いつかパジャマパーティーをやりたいです! ドレスコードは“パジャマ”で」
【参照元】文化服装学院HP Next
浮城 優子
2006年
バイヤー/“Caph”企画
㈱アンビデックス「note et silence」事業部
3つの職種を兼任する多忙な日々
この春で入社6年目を迎える浮城さんは現在、ショップスタッフ、バイヤー、アクセサリーの企画の3つの業務を兼任している。文化卒業後、ショップスタッフとして「アンビデックス」に入社、その後店長を経験し、バイヤーも担当。そしてこの春2シーズン目を迎えるアクセサリーブランド“カーフ”の企画も任されるようになった。入社以来5年間、ショップスタッフとしてさまざまなことを学び、感じ、身につけてきた浮城さんは、常に現場に立ち、直接お客さまに接することの大切さを実感している。そしてバイヤーや企画職を任された今でも、週に3日は販売員としてお店で接客に勤しんでいる。「会社でパソコンに向かっている時間はほとんどなく、常に外にいます。企画のアイデアもお店や、外にいるときに浮かぶ事の方が多いです」。
販売員の仕事の魅力に気づいて
就職活動で参加した会社説明会で、仕事を兼務している方が多い現在の会社に魅力を感じ応募した。一度は企画職としての応募に落ちるも、再度販売員として応募することに。「今は企画をしたいと思っているけど、この会社なら枠にとらわれない事ができるかもしれない」と感じたそう。そして入社後「ノート エ シロンス」の販売員として働くことになる。 浮城さんは、もともと接客される事が苦手で、入社当時の目標は“嫌われない接客をする”ことだった。「今では接客されたくない側から、接客されたい側に変わりました」。それは、販売員は商品に対する情報を持っていて、それを聞かなければ損だと思うようになったから。色違いやサイズ違い、デザインされた経緯や、それに込められた想いなど、そのアイテムに関わる情報は接客されなければ分からないからだという。「販売員の商品に対する情熱が伝わるお店が好き」といい、今は販売員が楽しそうに働いているお店で買い物することが多くなったそうだ。接客することによって、お客様に商品の魅力を最大限に伝えることができるこの職種にやりがいを感じ、今ではどんなに他の業務で忙しくても、お店に立つ時間を惜しむことはない。
失敗しながらも新しいことに挑戦する気持ち
入社後3年目に表参道ヒルズ店の店長に抜擢された浮城さん。売上を左右する発注やディスプレイなどのレイアウト全てを各店舗の店長が担うという大役も「個性の見せ所だ」と持ち前の前向きさで引き受ける。「若さと経験の浅さで失敗したこともありましたが、失敗してよかったと思っています。失敗したことは、悔しさとして覚えていますから」。ブランドの売り込み方、見せ方、お店の方向性など、いろいろな面において自分なりに分析をしていると、自然と商品の仕入れの必要性を感じるようになった。そんな矢先、バイヤーとしての仕事の話をもらうことに。最初は先輩バイヤーについてバイイングに同行することからスタートし、今では立派に1人のバイヤーとして雑貨・アクセサリーなどを仕入れている。
みんなで作るブランドにしたい
「バイヤーになり国内の展示会や海外を回る中で、うちのブランドに合うアイテムになかなか出会えないことに気づきました」。国内にはかわいいものやとんがったデザインのものはあるけど、そのどちらにも属さないテイストをもつ「ノート エ シロンス」に合うアイテムが見つからず、買付けに限界を感じていた。そんな時に生まれたのが“カーフ”だった。無いなら自分達で作ってしまおうという発想だ。「お店の販売スタッフの中にも、絵が上手な人たちがいて、そんな眠っている才能をいかして、新しいアイテムを生み出しています」。それはみんなで物作りをしている感覚で、“カーフ”はひとつのチームだという。思わず頬が緩むようなおもしろくてシュールなアイテムが揃うカーフの商品は、お店で販売するスタッフから手に取ったお客様まで、みんなを楽しい気持ちにさせてくれる。
ブランドと一緒に成長していけるように
この春からは関東圏内のお店をショップスタッフとして回るという新たなスタイルの活動をし始める。バイヤーとして全てのお店を見て把握しておかないと的確な仕入れができないからだ。ショップに並ぶアイテムの企画を考えることも、おもしろいものを仕入れることも、お店の構成を練ることも、どれもまだまだ100%にはなっておらず、勉強するべき部分だと感じているという浮城さん。そして常に頭の中には、販売員とバイヤー、企画の3つの業務に対する気持ちの比重が、バランスを失うことなく存在しているそうだ。「小物の企画はまだ未知数。ショップスタッフとして感じること、バイヤーとして得る情報、自分自身の感覚、その全てをミックスして、物作りとショップ提案に活かしていければと思います。」
【参照元】文化服装学院HP Next
小林 資幸
2006年
ディレクター
PHINGERIN
パジャマの手売りからブランドをスタート
小林さんが運営するメンズブランド、PHINGERINの原点はパジャマ。ブランド設立4年目を迎える今はさまざまなアイテムを展開しているが、もともとは高級シャツ生地を使ったパジャマを、自分で手売りすることからブランドをスタートさせたという。「振り返るとかなり無謀だったと思いますが、当初はブランドの運営法がよく分からなかったため、開業資金のすべてをイタリア産のデッドストックの生地代と、500着分のパジャマの制作費につぎ込みました」最初に500着のパジャマを作ってしまったため、事務所は在庫と商品を入れる箱で溢れ、小林さんはその中に埋もれていたとか。「パジャマの夢にうなされながら『この先どうしよう』という不安で一杯でしたが、『500着売り切れなかったら、そのときは才能がないと思って諦めよう』という覚悟はできていました」
作品発表することの大切さを実感
1年間の手売り生活を経て、手売りによる販売に限界を感じた小林さんは、友人の雑貨店で展示会を開催することにした。都心から離れた場所だったにも関わらず多くの友人、知人が駆けつけ、ブランドをもう1シーズン続けられるだけの受注を受けることができたという。「展示会の真似ごとのようなものでしたが、展示会で多くの人に作品を知ってもらうことの大切さを実感しました」その後はパジャマを買ってくれたお客さんのつながりで、シーズン毎に南青山のレストランで展示会を開催。バイヤーに展示会に来てもらうために、全国の主要セレクトショップにダイレクトメールと作品の写真を送ったり、直接売り込みをかけたりするなど、小林さんは地道な活動を重ねた。
少しずつブランド運営のノウハウを習得
通常バイヤーの元には多くのブランドから招待状が届くため、PHINGERINのような独立系ブランドの展示会に呼ぶのはなかなか難しい。だが、小林さんの作品の写真に興味を持った大手セレクトショップのバイヤーが展示会を訪れ、実際の契約に結びつくラッキーも。「なぜPHINGERINに興味を持ってくださったのかは分かりませんが、この世界は何がきっかけになるか分からないと改めて思いました」右も左も分からない状態でブランドをスタートさせたため、「勉強代は相当支払ったかなと思います」と小林さん。「原価計算や工場や生地屋さんとの値段の交渉も、もっと経費削減できたと反省することもあります。でも、ひとつひとつ経験しながら学んでいくしかありません」
会社員生活を経てファッションの世界へ
幼いころお母さんがブティックを経営していた影響もあり、洋服に関わる仕事がしたいという思いを持ち続けていた小林さん。「デザイナーって格好いいな」と憧れていたという。だがアパレル業界の厳しさを知る家族は、小林さんがファッションの道に進むことに猛反対。小林さんは家族の気持ちを考え、高校卒業後は地元の電気工事会社に就職し、お金を貯めながら自分の道を見極めることにした。「当初は、建物の電気の配線もデザインのようなものかなと勝手に思っていました。当時は、デザインできるなら何でもいいと思っていたんです。でも実際やってみると、自分が思い描いていたデザインとはほど遠い世界で……。やっぱり、洋服について学びたいと思いました」こうして小林さんは会社を辞め、ファッションを学ぶことにした。
これからもパジャマを作り続けていきたい
小林さんがパジャマをつくり始めたのは、夢のあるアイテムだと思ったから。また「パジャマ=寝るときに着るもの」という概念にこだわらず、ドレスシャツの延長のように、表にも着ていけるアイテムとして展開させたいという試みもあったとか。「アイテムをどう着こなすかは、着る人がそれぞれ決めればいいことだと思いますが、パジャマにこだわる男って素敵だと思うんです。例えば誰かが家に遊びに来たとき、Tシャツではなくパジャマをさり気なく出せたら格好いいですよね」今後もメンズのさまざまなアイテムを発表しながら、定番としてパジャマを作っていきたいという小林さん。「僕にとってパジャマはお守りのようなもの。今後も新作を作り続けていきたいです」
【参照元】文化服装学院HP Next
岡本 裕治
2006年
デザイナー
“CYDERHOUSE”
ファッションと音楽の融合を目指して
文化服装学院在学中から、大貫憲章氏(音楽評論家、DJ)のイベントの手伝いをしたり、宇川直宏氏(映像作家、グラフィックデザイナー、大学教授)に師事するなど、ファッションと音楽の世界からさまざまなインスピレーションを受けてきた岡本裕治さん。オリジナルブランドの名称“CYDERHOUSE”も音楽から発想を得たもので、「“CYDER”とは、もともとイギリスのパンクス達が飲んでいた安い発泡酒のことで、<カオスU.K.>というバンドのリミックスの曲名でもあります。そんな日常を楽しむためのお供“CYDER”をつくる場所としての“HOUSE”でありたいと考え、ブランド名に決めました。パンクで、民族的で、サイエンス・フィクションな世界観を、洋服で表現できればと考えています」。
皮革のオーダーメイドから服作りのキャリアをスタート
文化を卒業後、2007年に友人と共にブランド「Cidermouse posse」を立ち上げた岡本さんですが、仕事としての服作りは、在学中に手がけた皮革のオーダーメイドが始まりだそう。「アパレルデザイン科の授業で製作した革ジャンの評判がよくて、それを見た音楽関係の人たちからオーダーを受けるようになったのがきっかけです。初めの1年は5~6着ほど。デザインから、皮革選び、仮縫い、皮革の加工まですべて一人でやっていましたね」。そんな岡本さんが、文化で学んで本当によかったと思うのは「自然に洋服が作れていること」だとか。「デザインのことはともかく、洋裁の基礎やパターンを身につけられたことが一番大きいですね。コレクションは縫製を外注していますが、オーダーメイドはすべて自分たちで製作しているので、日々、実感していますし、とても大切なことだと思います」。
同級生である妻が一番の理解者
アパレルメーカーに所属することなく、フリーランスとして活動している岡本さん。「フリーで仕事をするのは、自由さえも、すべて背負うことになります。自分でやらないと気がすまないので、つい抱え込んでしまうのですが、文化の同級生や後輩に協力してもらうこともあります。手さぐりで始めた展示会も、人づてにスタッフを紹介してもらって経験を積むことができました」。中でも一番の理解者で、的確なアドバイスをくれるのが、同級生でもある奥さま。「学生時代から僕は夜遊びばかりしていたのですが、妻はまじめなタイプ。お互い、ものを全然違う視点から見ているのですが“おもしろい”と思うものは一緒なんです。デザインを描いたら、ときどき妻にチェックしてもらうのですが、大幅に書き直すこともあります(笑)」
ストーリー性のあるデザインで“ワクワク”させたい
2010年からスタートしたコレクションでは、<スイマー>、<マーマン>(アメリカの半魚人のキャラクター)、<DADADA>(芸術運動『ダダイズム』と、ウルトラシリーズの怪獣“ダダ”をフィーチャー)といったキャラクターをイメージソースにしたデザインを発表。<DADADA>のコレクションでは、ウルトラ怪獣の“ダダ”好きが高じて、「円谷プロダクション」とのコラボレーションアイテムも製作しているというから驚きだ。「『円谷プロダクション』には二度ほど断られたのですが、熱意が通じて実現することができました。<マーマン>のコレクションでは、皮革やニットで魚のウロコを表現。デザインをしているときの“ワクワク感”を一緒に楽しんでもらえたらうれしいですね」
最終目標は家をつくること!
仕事道具であり、財産でもあるのが、左の写真のスケッチブック。いつも持ち歩いていて、気になるデザイン、生地、切り抜きなどをストックしているという。「夜中におしゃれそうな映画を流して、ぼーっとしながらデザインを書きとめたりしています。最近は映画が好きで、イタリアの古いものやSF全般を見ます。写真集を見たり、展覧会に行ったり、そんな日常のことからコレクションのテーマを漠然とイメージして、最終的にそれらを繋ぎ合わせていくことが多いですね」。また、デザイナーとして自分の違う一面を引き出してみたい、という思いも。「デザインを通してやりたいことはいくつもあって、ストーリーのあるファッションショーや、別のブランドにデザイナーとして参加することにも興味があります。そして、最終目標は“ハウス”をつくること。おもしろいものを作っていきたいですね」。
【参照元】文化服装学院HP Next
有賀 ’ani’ 貴友
1999年
デザイナー
“blackmeans”
趣味が高じて仕事につながった、独自のレザー加工
皮革製品のOEM生産をはじめ、2008年秋冬からスタートした「有限会社ヴァード」オリジナルのレザーブランド“blackmeans”のデザイン、加工を手がけている有賀さん。アパレルで販売とプレスのアシスタントとして働いていた有賀さんが、その後、レザーウエアの仕事に携わるようになったのは、ごく自然の成り行きだったという。「レザーが好きで、そのもともとのきっかけになったのは、パンク、ハードコアといった音楽の世界。レザーアイテムを新品のまま着るのではなく、独学で身につけた加工技術で、着古した雰囲気を作って楽しんでいました。着ていれば自然とつくシワを手作業で作りだすのですが、好きでやっていたことが仕事につながるのは、うれしいことですね」
仕事道具は、この手
“blackmeans”では、有賀さんを含むメンズスタッフ3名、レディーススタッフ1名、小物類のスタッフ1名の計5名で活動。一人のスタッフが、1つのデザイン、加工をトータルで手がけている。デザインしたアイテムを岐阜の工場で縫製し、着古したように両手を使って加工するのが有賀さんの仕事。手で仕上げるレザー加工は、大量生産することができないので、世界的にみても数少ない技術だそうだ。「水や薬品に通したり、アイロンで熱をかけたりして形をつけます。加工しやすい皮革作りから手がけているので、調整しやすくはなっているのですが、夏の最中、1,800着近くのジャケットを加工したときには、途方に暮れましたね(笑)」表情豊かなシワや、しなやかな手触りなど、一つとして同じものがないのも魅力。すべては蓄積された経験から生まれている。
文化で得た一番の財産は、同じ言葉で話せる友人
スタイリスト科を卒業後、ファッション流通専攻科に進み、計3年間の学生生活を過ごした有賀さん。クラスメイトだった友人はスタイリストとして活動している人が多く、デザイナーとスタイリストとして仕事で出会うこともあるそうだ。「学校にいるときから交流のあった人たちとは、今もつながっています。文化の卒業生とは、同じ言葉で話せるのがいいですね。空気感というか、何か特別なものを感じます」。また、後輩である文化の学生たちに、今の仕事を通してファッションの楽しさを伝えていきたい思いも。「僕らが学生のころは、原宿がすごくおもしろい時代でした。授業とはまた別のところで学んだことも多く、勢いのあった時代に先輩から学んだことを、後輩たちにも伝えていきたいですね」
OEMとオリジナル、それぞれのおもしろさ
有賀さんがその両手から作り出すレザーアイテムは、オリジナルブランド“blackmeans”のほか、OEMとして生産されたブランドでも出会うことができる。「ブランドでレザーを扱うのは、特別なこと。そこをわれわれが担うことは、やりがいもあり、かつ責任という重みを負う仕事でもあります。だからこそ“手”で加工する技術をもっと見せていきたい。オリジナルブランドの作品も『こういうものが作れる』ということを伝える役割を果たしているのです。われわれの技術とブランドとの相乗効果で、よりいいもの、おもしろいものが生まれてきますからね。多くのファッションブランドがレザーアイテムを発表してくれる、そんな元気な時代になってほしい、という思いで作っています」
レザーファッションをより身近なものに
“blackmeans”では、レザージャケットのほか、遊び心のある小物のファンも多い。シーズンごとに登場する小物入れは、デザインならぬ“ネタ”を出し合って生まれたアイテム。「会話のネタになるものを、小物類は特に重要視しています。ギャグとして、メリケンサックなどの武器のシリーズ(ライターケース)を作ったり、コンビニのおにぎりがぴったりと収まるケースを作っています」。レザー好きというと、ビンテージアイテムの知識やそれにまつわるストーリー、当時のカルチャーを含めた空気が好きな人、使われているレザーのうんちくが好きな人、といったイメージがつよいが、「僕らはそういうイメージと違った方向にいきたい。気軽に楽しむファッションとして浸透していくよう、布の服と同じようにレザーでも遊べるよ、と伝えていきたいですね。何かに縛られることなく、ずっと趣味のまま、新しいものを提案していきたいです」
【参照元】文化服装学院HP Next
野澤 圭介
1999年
バイヤー/デザイナー
ELIMINATOR/KUBRICK
20代で築いたものが開花し始める
代官山のショップ「ELIMINATOR」のバイヤー・野澤圭介さんは、2011年秋冬にメンズブランド“KUBRICK”を立ち上げ、現在同ブランドのデザイナーとしても活動を開始したばかり。20代で学んだことや温め続けた服に対する想いが、30代になった今、ブランドを立ち上げる糧となった。立ち上げに際して、ここ数年の経済的な社会背景を心配し、友人から様々な忠告もあったが「逆にこういう時代だからこそやってみることで可能性というより、価値として残すことができるのではないかと思いスタートしました」と話す。
古着の世界で築いた礎
進学して更に深い勉強をするよりも、早く社会に出て働きたいという気持ちが強かった野澤さん。文化卒業後は学生の頃から興味があった古着の世界へ進み、老舗である原宿の「VOICE(ヴォイス)」でアルバイトとして働くことに。「その時は古着から感じ取れるセオリーやバックグラウンドにすごく興味がありました」。「VOICE」では、とにかく先輩から仕事の知識やノウハウを学び、2年目の21歳の頃に初めて買い付けに同行。当時を振り返り「本当に運が良かった」と話す。ロサンゼルスに住んでいる社長のもとへ行き、社長が自ら開拓した古着を買い付けるネットワークやコネクションに触れ、現場の空気やビジネスの流れを勉強すると同時に、古着1点1点に対してもっと奥深い視点の持ち方も学んだ。
本格的にバイヤーとしてパリへ
約3年古着屋でさまざまな経験を積んだあと、現在のショップに入るきっかけをくれたのは古着屋でお世話になった先輩だった。当時オープンしたてでいろいろなイベントを企画していて、ヘルプで働くようになったのが始まり。その後、正式にショップスタッフになる。少数精鋭の会社のため、ショップスタッフといってもプラスアルファで仕事を任せてもらえたことが成長につながったという。野澤さんの場合はショップスタッフとバイヤーを兼任。ある日、突然社長からの「パスポート持っているか?」の一声でパリコレクション期間中にバイイングへ飛び、本格的にバイヤー職に携わることになる。今では毎シーズン一人でパリに買い付けに行くまで任されるようになった。当時社長に教えてもらった「とにかくクリエーションに対する嗅覚を鋭く、アンテナを高く、いろんな角度からものを見るように」という感覚的なことは今でも仕事をしていく上での教訓になっている。
バイヤーについたからこそ見えてきたデザイナーへの道
毎シーズンファッションのスタート現場に出向き、新鮮な刺激を肌で感じることができるバイヤーという仕事は、世界中で活躍しているデザイナー達の作品を自分の目で見て直接話を聞ける立場にいる。彼らのクリエーションに対するこだわりや、自己表現に対するスタンスに触れているうちに野澤さんの中にも「何か作りたい!」という衝動が起きた。「バイヤーがバイイングをしてショップを作り上げていくのと、デザイナーがデザインを考えコレクションを作っていくのはとてもよく似ていると思います」。2つの職種の「作り上げる」という共通した部分が野澤さんを大きく動かした。自分がやりたい事を社長に言うと、「やりたいことがあるならやってみたらいい」と後押しされた。最初はアクセサリーやシューズのデザインをする活動から始まり、先シーズンは初めて自身の力だけでコレクションを発表するに至った。
一段一段、階段を上っていくように
今は、「ELIMINATOR」のバイヤーの仕事と、“KUBRICK”のデザイナーの仕事でめまぐるしく過ぎていく毎日で、休日もなければ昼も夜も関係ない生活が続いている。しかし辛いと感じることはないそう。先シーズン初の展示会を開いてみて次への課題が見つかった。「次への課題」というものは続けていく上で必ず沸いてくるものということにも気がついた。そして「そこをクリアしないと自分の中で納得できないし、クリアできないまま止めるわけにいかない。まだまだやらなければいけないという気持ちのほうが今は大きいです」。
【参照元】文化服装学院HP Next
馬渡 圭太
2004年
バイヤー/デザイナー
CANNABIS/LITTLEBIG
在学中からアルバイトとして働き始める
音楽・ファッション・アートの融合をコンセプトに、アウトサイダーたちの集まる場所を目的としたセレクトショップ「CANNABIS」でバイヤーとして働く馬渡さん。入社のきっかけは2003年9月、前身ともいえるショップ「FACTORY」のオープンのタイミングで当時バイヤーの方から誘われ、オープニングスタッフとしてアルバイトで入ることに。当時は在学中(2年次)で、授業が午前中で終わる水曜日と、土日の週3日間の勤務で販売員として働いた。「よく通っていたショップがあって、そこのスタッフの人に可愛がってもらっていて、食事に誘ってもらったりもしていました。それで『うちで働かないか』と声を掛けてもらったんです」。通学しながらアルバイトを続け、卒業後そのまま正式に入社することに。
アシスタントを経てバイヤーに就任
卒業後も販売員として働いていくうちに、ショップの運営に魅力を感じ、バイイングというものにも興味がわいていったという。「個性の強いスタッフが集まるお店だったので、洋服もそうだけどスタッフの個性で出来るお店というものにすごく興味があったんです」。そして当時のバイヤー兼ディレクターであった上司に、バイイングをやりたいという意思を直訴。そこからバイヤーアシスタントとして同行するようになる。しばらくは2人で回っていたが、上司はディレクション業務も兼任していたため忙しく、いつの間にか馬渡さんが1人でバイイングを任されるようになったそう。「話を振ってくれる人で、積極的に2人で考える機会をもらえていたので、それが少しずつ自信につながっていった気がします。自分のスタイルで仕事をやっていこうと思えたのは、その上司と一緒に仕事ができたからかもしれないですね」
ブランド推しやアイテム推しなどその時々でセレクト
バイイングの大まかな流れとしては、まず海外のコレクションがWEBでアップされ、取引のあるブランドを見つつ、ほかに気になるブランドや個人的に好きなブランドをチェックし、ある程度の流れを汲む。しかしそこから仕入れに反映させることはないようだ。さらに各ブランドの展示会へ行き、ショップ作りの形を汲んでいくそう。シーズンによって様々だが、基本的には1月から4~5月までは秋冬の仕入れをし、7月から11月頃までは次の春夏の仕入れを行っている。「セレクトに関してはもう1人のバイヤーと話して決めることもあれば、ブランドで色をつけたりアイテムで色をつける場合もあります。例えばコートのルックを推していこうとなれば、色んなブランドのコートを入れたり。それぞれ考えますね」
自分からにじみ出たものを洋服に
バイヤーだけでなく、自身のブランド「LITTLEBIG」のデザインも手掛けている馬渡さん。デザインを務めるのは3ブランド目だそうだが、現在はデザインから生産管理まで1人で行っている。「コンセプトは特に設けていないんです。ただ自分らしさを出してければいいなと思っています。音楽の匂いがしたり、時にはコンセプチュアルだったり。"自分からにじみ出たものが洋服になった"というのが出来ればいいかなと」。そしてこうも言う。「良いパターンと良い生地と良い工場=(イコール)良い洋服が出来るかって言ったらそうではないんですよね。その洋服にかける愛情と、どれだけ考えたかっていうこと。細かいところまで見るとか…それが洋服の佇まいに表れるんじゃないかと思います」
お客さんがドキドキするものを仕入れていきたい
バイヤーとしてやりがいを感じるのは、「ユーザーよりも先に洋服が見られるので、そこで何かを感じることができること。当たり前のことだけど自分が仕入れたものが売れると嬉しいですし」。デザイナーとしては、「自分の思い通りのものが上がってきた瞬間はすごく満足するし、それにオーダーがつかなくても作ってよかったと思えます。そこから先はバイヤーの時と一緒で、それが売れる時はすごく嬉しいですし」。多忙を極める馬渡さんには時間が足りないようで、服作りにかける時間をさらに増やしたいそう。今後はもっとデザインに力を入れていきたいという。「お店をやっていく以上は、買ってくれるお客さんがドキドキするものを仕入れていきたい、見続けていきたいなって思いますね。そういうものに触れる機会があるというのは嬉しいことですね」
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柳川 鉄平
営業
JOHN LAWRENCE SULLIVAN
兄とともにブランドを運営
英国テーラードをもとにした、美しいフォルムの紳士服が注目を集めているジョン ローレンス サリバン。2011-12年秋冬にはパリコレクションにデビューし、今もっとも勢いのあるブランドのひとつとして知られている。そんなブランドを陰で支える柳川さんは、デザイナー・柳川荒士さんの弟。ブランドの立ち上げ当初から、デザイナーである兄と力を合わせ二人三脚でブランドを運営してきた。「兄がブランドをスタートさせたのは、僕が文化の3年生のときでした。卒業後一緒にやるようになったのは、自分が文化で学んだ知識やアルバイトで培った商品・生産管理の経験を、何か役立てられるのではないかと思ったからです。2008年にフラッグシップショップを立ち上げるまでは、ほかのスタッフもおらず兄とふたりだけで、作業を分担しながらこつこつと洋服を作り、発表していました」
ブランド運営の幅広い業務に携わる
現在、主にメンズ部門の営業を担当する柳川さんだが、商品・生産管理のサポートやスタッフの管理など、ブランド運営に関わる細かいところまで手掛けている。仕事の軸は年2回のパリコレクションと、その合間に開かれる展示会。時間があれば都内のショップを訪れて商品の動きをリサーチしたり、ショップスタッフやバイヤーとコミュニケーションを取ったり、いつも忙しく走り回っている。「出社してメールチェックした後、デスクにじっと座っていることはまずありません。営業は人との関わりがすべてですが、僕は人と話をするのが大好きで、相手がよほどの人見知りでない限り、初対面の人とでもすぐに打ち解けられます。そういう意味では、今の仕事は自分にすごく向いているのかなと思います」
ひとつのファミリーのように
ジョン ローレンス サリバンのスタッフは、ショップスタッフも含めて現在9名。仕事が終わればみんなで食事に行くこともあり、ひとつのファミリーのようだという。実は、経理を担当しているのは柳川さんの姉。姉・兄・弟の3人が、それぞれ自分の得意分野を生かしてブランドに携わっている。「よく『兄弟で仕事をすると大変じゃないですか?』と聞かれますが、不思議とそんなことはありません。兄とは年齢が7つ離れているせいか、お互いの意見がぶつかることはありませんし、かといって変に遠慮することもなく、何でも相談できる関係です。もちろん、無理難題を言われて大変なこともありますが、無理なときは無理とはっきり言えるのは兄弟のよさだと思います」
中学のころからファッションの道を志す
小さいころから、7歳年上の兄に憧れて育った柳川さん。中学高校時代は、既に東京で生活していた姉、兄を訪ねて広島から上京し、おしゃれなショップに連れていってもらっていたとか。「そのころから東京でファッションの仕事をするのが目標で、はやく社会に出たいと思っていました。なので、働きながら学べるⅡ部を選んだのは自然の流れでした」。学生時代は昼間アルバイトをし、夜は学校が終わったら兄のもとに駆けつけ、兄や兄の仕事仲間と遊んでいたそう。「みんな僕より年上で、既にファッションの現場で働いている人たちだったので、話をしていて面白く刺激を受けました。そんなわけで、学校の友達と遊ぶ機会はあまりなかったですが、卒業した今でも、ブランドの展示会を見にきてくれる同級生がいるのはすごく嬉しいです」
目の前のことに懸命に取り組む
ブランドを始めた当初は行く末がよく見えなかったが、「とにかく格好いいものを作ろう」という思いで今日までやってきたという柳川さん。東京コレクションに参加したときも、その後パリコレクションに移ったときも迷いはなく、思い立ったことはすぐ行動に移してきたそうだ。「これまでブランドをやってこられたのは、周りの人たちの助けも大きかったですが、何より好きなことだったからだと思います。好きなことなら苦しいことがあっても楽しいし、たとえ失敗しても『勉強になった』と前向きに考えられるはずです。長期的な目標を立てることも大切かもしれませんが、今はまず、目の前にあることを一生懸命やっていきたい。これからも走り続けていきたいです」
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花里 裕
2005年
グレーダー
(株)イスト
大学に通いながらファッションへの道を選択
オフィスから飲食店、パーラー、アミューズメントパークまで様々な職業のユニフォームウェアを展開しているイスト。そこでグレーダーとして勤務している花里さんは、大学に通いながら二部服装科に通っていた。そこで3年間学んだ後に技術専攻科へ編入したという経緯だ。「地元が上野ということもあって服に興味はあったんですけど、高校が付属だったのでそのまま大学へ進学したんです。大学では考古学を専攻していたけれど仕事にはできないと思い、大学2年の時に文化の二部に入学しました」。そして技術専攻科を卒業後はオンワード樫山に入社。そこからグレーダーとしての職務をスタートし、オンワードで4年勤めた後に現在のイストへ転職した。
幅広いサイズ展開をするユニフォームウェア
パタンナーの作ったパターンをサイズ展開していくのがグレーダーの仕事だが、もともとはパタンナー志望だったという花里さん。「でも今ではグレーダーの方が向いていると感じます。自分には合っていると思いますね。CADを使って仕事をするのが好きなので」。オンワードでは一般衣料として多くのブランドのグレーディングを手掛けていたが、ユニフォームウェアとなるとサイズ展開の幅に違いがあるようだ。サイズ展開が多くはない一般衣料に比べ、ユニフォームは5号から23号まで10サイズの展開をするという。「仕事量はそんなに変わっていないと感じますが、やる範囲は広くなったと思いますね。10サイズあってもそれに合わない人のための特寸という対応もするので」
サイズが大きくなるほどバランスが大事に
一般衣料と同様に1年に春夏・秋冬の2シーズンに分けて新作が発表されるユニフォームウェア。しかし一般衣料に比べてデザインものが少なく、実用性や着心地が重視されるため素材も多くは選べない。そんな中でもトレンド要素が取り入れられることもあり、シルエットやスカート丈などは年々変化しているようだ。グレーディングにおいてはバランスが重要になるという。「10サイズも展開するとなると、大きければ大きいほど形が崩れやすくなります。ただ単に同率で拡大するのではなく、9号のバランスを大きいサイズの人にどれだけ同じバランスで着てもらえるか。いかに崩さないで着てもらえるか。そういったことを視野に入れてピッチを考えています」
今後の3D CADの開発に期待
仕事上では学生時代に学んだ基礎知識が役に立っているという。グレーディングの詳しい知識や技術については、就職してから身に付けていったようだ。現在社内でグレーダーを務めているのは花里さん1人しかいないという。1人ですべてのグレーディングを手掛けるのは大変なようだが、様々な企業のパタンナーが集まるセミナーなど、外部の勉強会に出向く機会があるとのこと。「最近3D CADが開発されてきていて、それを追っているんです。ソフトの発表会を聞きに行ったりしています。まだ実践的ではないけれど今後広がっていくと思います。3D CADができたらユニフォーム業界にとっては嬉しい進化ですね。いろんな体型の人が着られるようになるのでかなり役に立つと思います」
パターンの知識があるグレーダーでありたい
学生時代は学友会に所属し、3年次には委員長も務めていた花里さん。「違うクラスの人たちと繋がりを持てたのがよかったですね。特に夜間(二部服装科)には違う学年の人たちもいるし、いろいろな人たちと関われて楽しかったです」。卒業後も学生時代の友人たちと交流があるそうで、そういった繋がりも魅力のようだ。「ずっとグレーダーを続けるのは厳しいと思うので、もっと範囲を広げていきたいですね。もともとは文化のCADの先生になりたかったんですが、一度企業での仕事を経験してからなろうと思っていたので。パターンありきのグレーダーなので、パターンの知識があるグレーダーでありたいですね。だからもっとパターンのことを知っていきたいと思っています」
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佐々木 明奈
エディトリアルデザイナー
SKETCH
好きな仕事ができる充実の日々
佐々木さんが所属するスケッチは、エディトリアルデザイナー・志村謙さんが代表を務めるデザイン事務所。約半年前、事務所の立ち上げとともに採用された佐々木さんは、志村さんの教えを受けながら雑誌やムックのデザインを行っている。既に、佐々木さんが中心となって動く仕事もあるようだ。「ずっと出版物のデザインがしたかったので、スケッチへ来てやっと夢のスタートラインに立てたという感じです。でも分からないことがまだいっぱいあり、ほかの雑誌や本のデザインを見ては『こうすればかわいくなるのか』『私が悩んでいたのは、こんなに簡単なことだったのか』と後で気付くことばかり。でも、好きなことができる毎日はとても充実しています」
就職をやめ、デザインの勉強を決意
洋服が大好きで、スタイリストになりたいと文化に入学した佐々木さん。だが2年次のコーディネート論の授業が、夢をエディトリアルデザイナーへと変えた。「あるとき自分の雑誌を作るという課題が出たのですが、写真や文章を組み合わせる楽しさに夢中になりました。デザインや製本は自己流でしたが、雑誌作りってなんておもしろいんだろうと思いました」。当時佐々木さんは就職活動を行っていたが、メディア業界に詳しい先生から「エディトリアルデザイナーを目指すなら、勉強し直したほうがいいんじゃない?」とアドバイスを受け、グラフィックデザインの専門学校に入り直すことを決心した。「学校には2年間通い、ソフトの基本操作からページの組み方の基礎、イラストや立体物の制作、色彩学など幅広い知識を身につけました」
理想と現実のギャップに直面
学校を卒業後はデザイン事務所に入った佐々木さんだが、手掛けるのはチラシやパンフレットで、憧れの雑誌とは程遠い世界が待っていた。「当時は勉強不足で、デザイン事務所に入れば雑誌の仕事ができると思っていたんです……。ずっと"石の上にも3年"と自分に言い聞かせましたが、『このままでは、本当にやりたいことができなくなる』と2年弱で辞めることにしました」。そして転職活動を始めた佐々木さんだが、ここで新たな現実が立ちふさがる。エディトリアルを手掛ける事務所は、採用条件にInDesign(インデザイン)*の使用経験を求めることが多いが、佐々木さんは学校でも職場でも触れたことがなかった。「私が専門学校にいたころインデザインはまだ主流ではなく、職場でも使っていなかったので学ぶ機会がありませんでした。仕方のないことですが、くやしかったです」
思わぬところから開けた道
その後、佐々木さんはペット用品メーカーに転職し、カタログのDTPオペレーターや、途中からは文化での知識が買われプロダクトデザイナーとしても活動。またエディトリアルデザインから遠ざかってしまうかに思えたが、そんなとき知りあいからデザイナーの志村さんを紹介される。事務所開設を予定していた志村さんは若手デザイナーを探しており、佐々木さんはその熱意が買われ見事採用される。「あとから聞いた話ですが、代表は次世代のデザイナーを育成したいと考えていたようで、私がインデザインを使えないこともすべて承知で雇ってくださったようです。入社直後からみっちりと学べる環境をつくっていただき、いち早く即戦力になれるよう指導してくださっているのには感謝しています」
ファッションや物作りの本に携わりたい
デザイナーというと激務、締め切り前の徹夜といった言葉をイメージするが、スケッチは志村さんの方針により規則正しい勤務形態で完全週休2日制。仕事はほぼ定時で終わるため、佐々木さんはデザインの引き出しを増やすため、会社帰りに書店や図書館に立ち寄ることも多い。「事務所から少し遠くても、雑誌のバックナンバーが充実している図書館にはよく行きますね。あと散歩も好きなので、デザインに煮詰まると二駅分くらい歩いて、頭をすっきりさせてから帰るようにしています」。佐々木さんの夢は、まだ始まったばかり。将来はファッション誌や物作りの本のデザインを手掛けたいと目を輝かせる。「そしていつか、1冊の雑誌や書籍の世界観を手掛けるアートディレクターになれたらいいですね」
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山田 悠大
アシスタントディレクター
株式会社アートワークス JOYRICH
話題のLAブランドをディレクション
Freedom、Hope、Dream、Loveをコンセプトに、ポップでインパクトのあるアイテムを世に送り出しているLAブランド・ジョイリッチ。この9月には大阪と東京に新店舗がオープンし、おしゃれに敏感な人たちを中心に厚い支持を得ている。山田さんの担当業務は、日本の直営店のディレクションや、日本で独自に展開するアイテムの企画、提案。LAのスタッフとメールやスカイプ(インターネット電話)でコンタクトを取りながら、ブランドを日本に広く浸透させるために奔走している。「ブランドの知名度が上がってきた今、コレクションを発表するごとに大きな反響があります。正直プレッシャーを感じることもありますが、長谷川さん(vol.40に登場)の所属するギズモビーズとのコラボレーションで作成したiPhoneケースなど、ブランド戦略について考えるのは面白くやりがいがあります」
ブランド運営にまつわる幅広い業務を経験
仕事について生き生きと語る山田さんだが、今日に至るまでは実は苦難の道のりがあった。文化卒業後はメンズブランドのデザイナーとして、マーチャンダイザー(MD)の指示のもと企画や生産管理、PRツールのグラフィックデザインなど幅広い業務に3年間携わる。でも、山田さんが目指していたのはあくまでもMD。自分の仕事にどこか迷いがあったという。「そんなとき、文化の友人の会社でMDを募集しているという話を聞き、思い切って転職することにしました」こうしてめでたくMDとなった山田さんだが、間もなくリーマンショックが起こり世の中は深刻な不況に。業務縮小の流れから、職を失ってしまう。「何十社と履歴書を送り面接を受けまくりましたが、なかなか話がまとまらず、そのうち貯金も底をつき、実家に戻るという苦渋の決断を迫られました」
苦しい経験が自分を成長させてくれた
実家に戻った山田さんは、家業を手伝いながら将来のキャリアや人生について考える日々を送った。「今振り返ってみると、一旦アパレル業界から離れ、初心に戻って自分の将来を考えたことは意味のあることでした。ほかの仕事をやってみて『やっぱり洋服に携わる仕事がしたい』と思いましたし、ブランドの一部だけでなく、トータルで見られる仕事に就きたいという目標もはっきりしました」また実家で過ごした時間は、スキルアップのチャンスも与えてくれた。「ビジネスマナーの本を読んだり、MCAS(マイクロソフト認定アプリケーションスペシャリスト)の資格を取得したりしました。あとイラストを描くのも好きだったので、イラストレーターやフォトショップの知識を深めたりもしました。社会人になってから改めて、腰を据えて勉強ができたことは貴重だったと思います」
追い詰められて掴んだ大きなチャンス
実家に戻って半年、山田さんは文化の友人からルームシェアの誘いを受け再び東京へ。数名と共同生活をしながら、就職活動を開始することにした。そして、チャンスは思ってもみないところから訪れる。「ルームシェアのメンバーに文化の先輩がいて、今の会社で人を探していることを教えてくれたんです。自分はけっこう思い悩むタイプですが、話を聞いた瞬間『やります!』と答えていました。といっても、合格する自信があったわけではなく、面接では自分の思いを一方的に喋って今の上司と社長に引かれてしまいましたが(笑)、自分が『これだ』と確信したことには不思議と縁があるんです」その言葉通り、山田さんは見事面接をパスしアパレル業界にカムバックを果たす。「現在も雇用状況はすごく厳しいですが、もし就職・転職活動で悩んでいる人がいたら『その経験は無駄ではないよ』と言ってあげたいです」
知識や経験を結果に残していきたい
人気ブランドに携わる立場として、時間に追われる山田さん。企画や情報収集は脳の働きが活発な午前中に、工場や外部スタッフとの打ち合わせは午後に行い作業効率を上げるほか、時差のあるロスからのメールチェックをするため始業30分前に出社する努力も怠らない。山田さんは高校の情報処理科に在籍していたこともあり、もともと理系寄り。MDを目指した理由も、論理的思考が必要とされることに魅力を感じたからだそう。また、文化時代は学友会(生徒会)の副委員長を経験。学生時代から、全体を統括する役割として経験を積んでいたようだ。「これまで遠回りもしましたが、自分が得た知識や経験をジョイリッチというブランドで結実させたいと思っています。今後はジョイリッチをファッションだけでないライフスタイルブランドにするために、さまざまな試みを行っていきたいです」
【参照元】文化服装学院HP Next